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【感情紀行記】有限

 なんでも写真をパシャパシャと撮っておく事はわりと重要であるように思える。日常に忙殺されていると、何か思い出したり当時の情景を思い出すのに苦労するだけではなく、誰かに伝えたり使ったりするときに特段便利である。

 しかし、簡単にいくらでも写真が撮れる時代というのも中々問題がある。社会的な問題も持っているが、そういうことではなく手軽さの問題である。自分の好きな写真家はいつの日か、このように語っていた。ズームが堕落の始まりで、AFが自分をおかしくしたと。その写真家は写真家である以上、最新の機材も使っているが、確かに言わんとしていることはなんとなくわかる。簡単に撮れてしまうがための写真というものの重みが減ってしまったことだ。文章もそうなのかもしれない。書き物を簡単に書き、共有できるようになったことで、文章というものの重みは消え、軽率な文章とかが拡散されることになったのかもしれない。

 最近、言葉としては聞いたことがあるものの、読んだことのない「陰翳礼讃」という本を読んだ。格調高い文章で日本文化を精密に、美しく捉えていた。文章を読むのが得意でも、好きでもない自分に久々に響く、衝撃的な本であった。自分の購入した本では文章とともに日本の美しい写真がフルカラーで綺麗に印刷されており、改めて日本文化の美しさを、文学と芸術の領域で思う存分に体感することができた。

 そんな感動を後輩に語らいながら、飲食を共にした。後輩としてとても親しくしてくれており、限りなく慕ってくれている。久々に心がお互いに開けたような気がする。後輩としての新たな見識をもたらしてくれるとともに、多少の馬鹿馬鹿しいことを共にできる。限られた心を開ける、共に楽しいと思える時間を過ごせる人だからこそ大切にしようとか、与えられた時間を楽しく過ごそうと思えるのかもしれない。

 やはり、新聞とか雑誌、本などの限られた紙面にある文章こそ、無駄なく最大限の情報が詰め込まれているように思える。たとえそれが文字情報ではなくとも。

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