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バリスタと私。(第五話)

時は流れていくけれど
流されるのは好きじゃない。

誰もいなくなった広いカフェで
今夜私はひとりで夜を過ごす。

昼間は暑い日が続いているが
夜になると冷たい風が吹いてくる。

お客様用のブランケットを何枚か持ってきて
私はソファーに自分の寝床を作った。

学生時代にバイトをしていた時には
ここで仲間達と朝まで飲み明かしたことがある。

私はお酒が弱いので誰よりも先に眠っていた。
懐かしい記憶はいつも突然にやってくる。



私は洗面所でメイクを落として歯磨きをした。
お風呂にも入りたいが店にはお風呂はない。

明日の朝に商店街の銭湯に行って
喫茶店でモーニングを食べよう。

今日は仕事をする為にここに来たというのに
旅行に来ている気分になってきた。

いつもと違う場所で眠る時には
私はいつも不思議な気分になる。

寂しいというわけじゃなく
嬉しいというわけでもなく
何とも言えない高揚感に包まれるのだ。



パジャマに着替えて寝床に入る。
窓の外から秋の虫の音が聞こえてくる。

夏が終わって秋が来て
あっという間に冬がくるのだ。

季節は誰のことも待ってはくれない。
一定の時間が過ぎれば、次の季節がやってくる。

私は毛布にくるまりながら
目を閉じて眠りについた。

バリスタくんがくれた電話番号には
メールさえしなかった。



翌朝、私は早起きをして銭湯に行った。

時間をかけて丁寧に髪と体を洗い
湯船に浸かり頭の中をからっぽにした。

何も考えない時間を持つことは
現代社会において最も贅沢なことかもしれない。

テレビやスマホを見ていると
否応なしに情報の渦に引き込まれる。

まるで自分が選んでいるかのようなフリをして
それは私たちの意識に狡猾に入り込む。

〈〇〇だから▲▲をしましょう〉

そうして私たちは、流されて生きているのだ。



銭湯を出て喫茶店にやってきた。

この店は夫婦ふたりで切り盛りをしている
昔ながらの昭和の喫茶店だ。

AMラジオから流れる懐かしい歌謡曲。
常連さん同士のたわいのない会話。
珈琲の匂いとパンの焼ける香ばしい香り。

今ではあまり見かけなくなった風景が
ここにはある。

私はモーニングのセットを食べながら
膝の上に乗ってきた店の飼い猫を撫でてあげた。

ネコはお礼に私の手を舐めてくれた。
私たちはゆったりとした朝の時間を過ごした。



つづく