【おはなし】 迷子ネコと見守り隊
金曜日の夜。ネコが大きな声で叫んでいるのが聞こえた。
僕は仕事が終わってから会社の同僚と一緒にビールを飲んでいい気分になっていた。最寄駅からフラフラと歩いていると、もうすぐ家に着くタイミングでネコの叫び声が聞こえた。発情かケンカかな、と思ってスルーして家に帰ってきた僕はお風呂に入った。
タバコ臭い髪の毛にたっぷりとシャンプーをつけてゴシゴシ洗い流していると、ネコの叫び声が近づいてくるのが聞こえた。気のせいだろうと思いスルーして体も洗ってから湯船に浸っていると、また叫び声が聞こえた。さすがにこいつは幻聴じゃない、と察した僕は、急いでお風呂から出ると半分濡れた体で外に出た。
僕の家の裏側から声が聞こえる。鳴き声はひとり分だけ。発情でもケンカでも相手が必要だから違うのかもしれない。緊張感のある鳴き声は僕に何かを訴えているように感じる。もうすぐ0時になろうとしている時間帯。住宅街が暗いのを考慮してか、空からお月様が僕を照らしてくれている。
鳴き声が聞こえた暗闇に向かって小型の懐中電灯をつけると、声がやんだ。びっくりさせちゃったかな、と思い僕は前方を照らすライトを足下に向けた。
「にゃー」
懐中電灯を消した。
「にゃー にゃー」
懐中電灯をつけた。
「・・・・・・」
消した。
「にゃー にゃー」
すぐ近くにいるみたいだけど僕には見えない。子猫の鳴き声よりは音程が低いから大人猫かもしれない。僕はしゃがんでから声をマネることにした。
「にゃー」と僕が鳴くと、見えないネコは「にゃっ」短く返事をくれた。
「にゃー」ともう一度。
「にゃっ」
「にゃー」
「・・・・・・」
「にゃー」
「・・・・・・」
飽きられてしまった。
暗闇にだんだんと目が慣れてきた。なんとなくあの辺にネコがいるように見える。僕は静かに様子をうかがうことにした。
5分くらい経ったのかな、ネコは鳴き声を上げながら反対側に向かって進んでいった。僕は家に戻るとパジャマを着てベッドに入った。
翌朝。
目覚めた僕は何をするよりも先にサンダルを履いて家を出た。昨夜にネコの鳴き声が聞こえた場所に向かう。あの辺にネコがいるのかなって思った場所には、コンビニのレジ袋が風に揺られていた。
土曜日の夕方。ネコが小さな声で叫んでいるのが聞こえた。
僕は背負っているリュックサックと両手に持っているお買い物袋を抱えて家に帰るところ。鳴き声がする場所にそっと近づく。びっくりさせないように忍足で。
僕の家から少し離れた場所にある家の庭から鳴き声が聞こえる。庭と言っても雑草が僕の腰の高さまで伸びているお宅。住人と僕は面識がない。もしかしたら空き家かもしれない。
そーっと近づくと、茶色の小さなネコと目があった。次の瞬間、茶色ネコは見えなくなった。もう少し近づくと、茶色ネコがしゃがんでいるのが見えた。
茶色ネコは地下通路へとつながる下水管の中から僕を見上げている。握り拳ふたつ分くらいの大きさに見える。まだ一度もお誕生日を迎えていないことは間違いないだろう。僕が右手を伸ばすと茶色ネコは配管の中に逃げていった。
なるほど、距離感が大切なのね。
荷物を抱えた僕は家に帰ると、リュックサックの中から本を取り出して読み始めた。一度もネコと暮らしたことのない僕は知識ゼロ状態だから、図書館に行って本を借りてきたのだ。茶色ネコの記憶が新鮮なうちに写真のページで確認すると、生後1〜3ヶ月であることが判明した。
僕は本を閉じるとお買い物袋の中から子猫用のごはんを取り出した。キッチンの戸棚から小さなタッパーをふたつ取り出して軽く水洗いをして乾かすことにした。ひとつはごはん用、もうひとつはお水用。
他人の家の敷地に侵入してネコを捕獲するほど僕には度胸がない。そのかわり、昨夜みたいに僕の家の敷地内に侵入してきたらネコに手を差し伸べてあげたい。僕の好意を受け入れてくれるかは自信ないけど、あの鳴き声を聞いた僕には何もしないという選択肢はなかった。
とりあえずネコが生きていることを確認できた僕は少しだけ安心した。近所のおばちゃんの話では、最近カラスがお腹を空かせているので生ゴミを出すときに気をつけたほうがいい、と教わったばかりだったから。
僕は簡単に夕食を作って野球中継を見ながら食べることにした。できるだけ小さな音で野球中継を見ながらネコの鳴き声にも耳を澄ます。音量を絞った状態での野球観戦は試合にあまり集中できないんだけど、チャンスやピンチに一喜一憂しなくて済むから気軽でもあることを発見した。
冷蔵庫から2本目のビールを取り出す。3本飲むと幻聴が聞こえそうだから飲み過ぎには注意しよう。応援しているチームは逆転勝ちをしたけど、ネコの鳴き声が聞こえないのであまり嬉しくない。
お風呂に入ってベッドに横になり窓の外に意識を向けるのだけど、今夜は来てくれないみたいだ。いつの間にか僕は眠った。
日曜日の朝。
ネコと目があった場所に向かうと、ピンク色の小さなお椀を見つけた。中には白い液体が入っている。子猫用のミルクかな。親切な誰かに僕は感謝をした。
なるべく足音を立てないように近くをゆっくりと歩きながらネコの鳴き声に耳を澄ませる。庭から少し離れた砂利道に生えているタンポポの影から茶色ネコが見えた。
「ねえ、ねえ、あっちにミルクがあるよ」
僕は距離を保った状態でしゃがみ込み、ネコに話しかけた。
茶色ネコはビクリと体を震わせて2.3歩後退してからこちらを見つめる。
「ごめんね、ビックリさせちゃったね。あのね、あっちにミルクが置いてあるから飲みなよ」
「・・・・・・」
「お腹すいてないの?」
「・・・・・・」
「にゃー」
「にゃっ」
「ミルク」
「・・・・・・」
「にゃー」
「にゃっ」
「僕と一緒に暮らす?」
「・・・・・・」
「にゃー」
「にゃっ」
「一緒に帰ろっか?」
「・・・・・・」
「にゃー」
「にゃっ」
僕が立ち上がると、茶色ネコは逆方向に逃げていった。
月曜日の午後。
取引先の会議室で新商品のプレゼンを終えた帰り道。僕は上司である部長にこっぴどく怒られている。僕が運転している社用車の中で助手席から凄みを効かせている部長は、怒りのあまり禁煙中にもかかわらずタバコに火をつけた。
プファ〜
部長は白い煙を僕の顔に吹きかけながら2日ぶりのタバコをうまそうに味わっている。僕は窓を開けて空気を入れ替える。
「今日のあれな、0点だからな!」
さっきはマイナス100点だったのがタバコのおかげで減点されている。
「だいたいよ、オメエは誰に向けて喋ってたんだよ。ビクビクしやがって、オレの顔をチラチラ見ながら喋るんじゃねえって何回言ったら分かるんだよ」
「すみません」
「すみませんじゃねえんだよ。プレゼンっていうのはな、心意気なんだよ。資料を作るときにアドバイスしたろ? なによりも大切なのは、宛先だって」
「宛先・・・ですか」
「そうだ、宛先だよ。ん? オレ言ってなかったっけ?」
「いえ、聞き・・・ました。すみません」
「だからすみませんじゃねえんだよ。宛先、宛先。誰に向けて話しているのかが何よりも大切なんだ。見た目や中身はどうだっていい。あの人は今、自分に向けて語ってるんだっていう確かな実感が持てるかどうかなんだよ。分かったか?」
「はい、勉強になりました!」
「ったく、オメエはいつも返事だけはイッチョマエだな」
会社に戻った僕たちはそれぞれの仕事を終えると、定時を迎えてからタイムカードを押した。
「さて、行くか」
「すみません部長、今夜はちょっと・・・」
「ったく、デートかよ」
「ええ、そんなところです」
「じゃあ、また明日な」
「お疲れ様です。失礼します」
うちの部長は怒鳴り散らした日には僕を食事に誘ってくれる。「安っぽい居酒屋でも我慢しろよ」と言いつつ支払いはいつもポケットマネーでご馳走してくれる。飴と鞭の使い方が上手いというか昔気質というか古風なおじさんなのだ。
いつもなら部長について行くところなんだけど、今夜の僕には行く場所がある。電車を乗り継いで自宅のある最寄駅で降りると、足音を忍ばせながら茶色ネコを探して歩いていく。
茶色ネコが潜むアジトから少し離れたところに、白ネコと黒ネコが見えた。この辺りでは有名な2匹の野良ネコさんは、手足を丸めて小さくなっている。彼らの視線の先には、ピンク色のお椀が見えた。
太陽が沈むギリギリの時間帯。空を見上げようとした僕の視線は何かを捉えた。それは、3階建ての家の窓からネコたちを見下ろしている、首元に鈴をつけたネコだった。
僕が先輩ネコたちにお願いをしなくても、茶色ネコの鳴き声は、ちゃんと彼らに届いていた。
おしまい