【おはなし】 味見のお願い
今年最初の夏日の午後。セールスマンの男がチャイムを押した。
「こんにちは。味見のお願いに来ました」
インターホン越しに訪問者の姿を確認しているわたしは、相手の身なりから判断してそれほど悪質な業者とは思えない。だけど基本的に訪問販売を断るということを今年の目標にしているわたしとしては、おいそれと姿を見せるわけにはいかない。
「結構です」と断ってから、この言葉があいまいな表現であることを思い出したのでわたしはすぐに訂正する。
「間に合ってます」
「そうですか。今日お持ちしたのは新鮮なミルクなんですけど、よかったら味見だけでもしてもらえませんか?」
新鮮なミルク? 味見? 気になるワードを連発する男のことがわたしは気になり始めた。
「間に合ってます」
わたしは再び同じ言葉を繰り返す。ちょっとこの奥さんアタマ悪いんかな、って相手に思わせる作戦。
「そうですか。じゃあ、またお願いします」といって男はインターホンのカメラから姿を消した。
数秒後、隣のおたくのチャイムが鳴った。
「こんにちは。味見のお願いに来ました」
さらに数秒後、隣に住む男性が玄関のドアを開ける音が聞こえた。
「はい、なんでしょうか?」
隣の住人は眠たそうな声を出す。
「お休みのところ失礼致します。牛乳屋の者なんです。今日はご近所に立ち寄ったついでにといいますか、まあ、ついでなんですけどね、味見のお願いにまわらせていただいてます」
「はあ・・・、味見といいますと?」
「はい、新鮮なミルクの味見をお願いしてるんです。ご協力いただけますか?」
「べつにいいっすけど・・・」
「ありがとうございます。えっとですね、こちらはカロリーオフのミルクです。あまさを感じると思いますけど人工的な成分はなんにも入ってません。新鮮な採れたてなんですよ。それとですね、こちらはいちご風味のミルクです。ご主人さんあれですか? いちごを買ったら練乳つけて食べるタイプですか? もしそうでしたら、これ一本でいちごミルクが味わえるお得なミルクなんですよ。せっかくですから、いっぽんずつお渡ししますね。ぜひ味見してください。じゃあ、失礼します」
「え、ちょっ・・・」
セールスマンが遠ざかりマンションの階段を登っていく足音が聞こえた。
「ん、どういうこと?」
隣の住人が戸惑っている声が聞こえる。商品だけを半ば強引に手渡して去っていく販売員ってどうなんだろう、とわたしだったら考える場面。
バタン
扉を閉める音が聞こえた。
わたしはゆっくりと20数えてから、そおっと扉を開けた。隣のお宅の前に試供品が置いてあったら断った証になると思ったので確かめてみたくなったから。だけど試供品は置いてない。ということは、お隣さんは受け取ったということになる。
わたしは玄関の扉を閉めて部屋の中に入ると、隣との設置面である壁に耳を澄ませた。
「・・・・・・」
なんにも聞こえない。
そりゃそうか。会話が筒抜けやったら怖い。どんな味がするんだろう。しかもなんのミルクなんだろう。牛乳って言われたら牛のミルクだとわかる。ミルクだけだと馬かもしれないし犬かもしれないしネコかもしれない。他にもお乳を出して子育てをする生命体はいてるだろう。わたしが知らないだけで宇宙人も含まれるかもしれない。
「う~ん、気になる・・・」
さらに気になるのは、味見という言葉。
「味見してください」って声をかけたり、かけられたりする場面というのは、わたしのなかではスーパーマーケットの試食販売以外に考えられない。お料理番組で先生が味見をするのを見守る助手の気分。ああ、こんなに気になるんやったら素直にドアを開けとけばよかった。
わたしは階段を登っていったセールスマンを追いかけることにした。
顔が隠れる大きめの帽子を探してマスクをつけて玄関を出たわたしは、マンションの階段をゆっくりと登っていく。上の階に到着すると、階段の踊り場からさっきのセールスマンがいてるか身体を半分隠しながら確かめる。
「あれ、もう帰ったのかな?」
視線を遠くへ伸ばしていってもさっきの男は見当たらない。そうか、今日はもう諦めて帰ったのかと思い階段を降りようと身体を反転すると、上の階につながる踊り場にさっきの男が隠れているのが見えた。
にやり
セールスマンの男は、見えない釣り針を手繰り寄せる仕草をしながら、ゆっくりと階段を降りてくる。
彼の術中にまんまとハマってしまったわたしは、嬉しいような悲しいような複雑な気分になり身動きができない。
彼はわたしの目の前まで降りてくると、肩に背負ったクーラーボックスを下ろし、わたしにフタを開けるように指示を出した。
「うそ〜ん・・・」
クーラーボックスの中には、魚の身体になったご近所さんが気持ちよさそうに泳いでいるではないか。
ぴち ぴち
きゃっ きゃっ
わたしは彼の指示に従いクーラーボックスに飛び込んだ。
おしまい