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エッセイ | 祈りとは何だろう? | 死・不在・祈りの謎

 終活について考えているわけではないけれども、最近、死について考えています。まだ暑いとはいえ、秋という季節は人をして感傷的にならしめるものです。

 死と一言でいっても、他人の死と自分の死との意味は大きく異なります。

 他人がいくら死んでも、私が生きている限り、この世はつづきます。ところが、私が死ぬということは、この世の終わりを意味します。

 人が死んだことを「いってしまった」と言いますが、私はここにいます。死体は目の前にあります。死んだ人はどこに行ってしまったのでしょう?

 たしかにこの世のどこを探しても、死者の生きている姿はもう見ることができません。しかし、生きている者どうしであっても、もう二度と会うことも、話すことも、何の音沙汰もお互いにない相手という人はいます。

 お互いの存在すら知らず、生まれてから死ぬまで、何の接点もなかった人は最初から死んでいるのと同じなのでしょうか?

 たまにですが、死というものは、相手が死んだことを自分が知っているのか否かということしか意味しないのではないか、と思ったりします。


 友人の乗ったであろう飛行機が墜落したことを報道で聞いたとしましょう。
 彼が無事だったのかどうか、当然のことながら気になります。この時点で、彼が無事だったのか、それとも死んでしまったのかということは、すでに決定づけられています。

 しかし、私が彼の無事を祈ることは無駄な行為でしょうか?
 祈っても祈らなくても、彼の生死はすでに決まっているわけですから、彼が生きていたとしても、死んでしまっていたとしても、彼の運命に対する影響はまったくありません。そう考えると、祈りは無駄なように思えます。しかし、なぜか感情的には祈るということが当然のように思えてしまうのが不思議です。

 「くだらない」と言う人もいるかもしれませんが、私には気になります。


 生か死かというほど深刻な事態ではなくても、私たちは、結果を知らない間は「祈る」ということはよくあります。

 たとえば、スポーツの試合。もうこの時間には試合が終わっていて、勝ったか負けたのか決まっているにしても、ちゃんと結果が分かるまでは、応援する人が勝っていることを祈ったりしますね。受験の合否の場合も、結果を知るまでは、合格していることを祈るのは普通です。


 感傷的な気分になると、「単なる不在」と「死」との決定的な違いは何だろう?、とか、結果はすでに決まっているのに人はなぜ「祈る」ことをやめないのか?、とか、考えたりします。


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