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言語学を学ぶ③ | サピア

(1) シリーズ「言語学を学ぶ」
 

 シリーズ「言語学を学ぶ」。今回は3回目。1回目、2回目の記事はこちら。

 今回の記事で取り扱うのは、ブルームフィールドと同じアメリカ言語学史上に燦然と輝くと言語学者サピアを扱う。
 サピアとは、いわゆる「サピア=ウォーフ仮説」のあのサピアである。


(2) サピア(著)(安藤貞雄[訳])「言語 ことばの研究序説」、岩波文庫

 この岩波文庫とは、たまたま学生時代に生協の本屋で出会った。そして、何の予備知識なしに読み進めたのだが、本当にすごい言語学者である。
 英語、フランス語といったヨーロッパの言語だけでなく、カンボジア語、サンスクリット語、中国語や、スラヴ系の言語まで、あらゆる言語が俎上にのせられている。
 正直に言えば、英語以外の言語の説明にはわからないことが多いのだが、これぞ言語学者のあるべき姿ではないか、と思った。


(3) サピア「言語」第11章 言語と文学を読む(引用)。

 この記事では、到底、サピア言語学の全貌を伝えることはできない。専門的な言語学についての説明は私にはできない。そこで、言語学者であるサピアがどのような「文学観」をもっていたかが描かれている、「第11章 言語と文学」から引用するにとどめる。
 小説を書く「文学者」と言語を研究する「言語学者」。言語を扱うという意味では、両者とも同じだが、言語学者が文学をどうとらえているか?、ということは興味深いことである。


●言語は、われわれにとって、思想伝達の体系以上のものだ。言語は、われわれの精神がまとっている目に見えない衣装であって、精神のすべての象徴的表現に予定された形式をあたえる。その表現がなみなみならぬ意義を有する場合、それは文学と呼ばれる。(前掲書p381) 


●科学的表現の適切な媒体は、それゆえ、記号代数と定義してもよいような一般化された言語であって、あらゆる既知の言語は記号代数の翻訳である。科学的な文献が過不足なく翻訳できるのは、もとの科学的表現がそれ自体、翻訳であるからだ。
 文学的表現は、個人的かつ具体的である。しかし、これはなにも、文学的表現の意義をすっかり媒体の偶有的な性質と結びついている、ということを意味しない。(前掲書p386)


●かれらの芸術的表現は、しばしば無理をした感じを伴う。ときには未知の原典からの翻訳であるかのように思われることさえある⎯⎯ 事実、まさしく、そのとおりなのだ。こういう芸術家たち⎯⎯  ホイットマンやブラウニングのような芸術家たち⎯⎯  は、かれらの芸術のめでたさよりも、精神の偉大さでわれわれに感銘をあたえるのだ。かれらがわりと不成功であったことは、文学には、どんな個別言語よりももっと大きく、もっと直観的な言語的媒体が遍在していることを示す指標として、最大の診断的価値をもっている。

 とはいえ、人間の表現はかくのごときものなので、文芸作家のうちでもっとも偉大なもの⎯⎯  それとも、もっとも満足をあたえるものと言おうか⎯⎯  たとえば、シェイクスピアやハイネのような詩人たちは、この一段と深い直観を、かれらの日常のことばの地方的なアクセントに適合または調節することを、無意識のうちに心得ていたひとたちである。かれらには、どこにも無理をした跡がない。かれらの個人的な「直観」は、絶対的な直観の芸術と、言語的媒体に固有の特殊化された芸術との渾然たる統合として現れる。たとえば、ハイネの場合、読者は、まるで宇宙がドイツ語を話しているような錯覚に陥る。素材が「消える」のだ。(前掲書pp.387-388)


(4) 感想

 確かに、ホイットマンの詩は、韻律の美しさをもって読者に感動をあたえるものではなく、その気持ちに読者が共感を覚えるという点において、偉大である。私もそう思う。
 また、シェイクスピアが今でも楽しまれるのは、無意識的なレベルで一段と高いところまで日常の言葉が昇華されていることによるのだろう。

 個人的な直観と特殊化された芸術の統合がなされたとき、素材そのものが消えて普遍性をもつのだろう。

 有名な作家の言葉ではなくとも、心をうつ言葉というものがある。それは普遍性という面では、有名作家より劣るものかもしれないが、少なくても私とあなたの間に普遍性がほとばしるようなものなのだろう。

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