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幸福論を説く者は不幸であるという話。

 「どうやったら幸福になれるのか?」という文章を毎日のように書く人は、不幸なのではないか?、と考えている。

 本当に幸福な者は、幸福について考える必要がない。すでに幸福なのだから。幸福について書こうとする人は、自らが不幸であることを告白しているようなものだ。


 幸福について書く人の文章には、大別して2つのパターンがある。

 ひとつは、今の自分がこれから実現したい夢に近づく方法を語るもの。
 もうひとつは、不幸な今の自分の現状をなんとか肯定しようと人に語るもの。

 前者に対しては、応援したい気持ちが湧くことがあるが、後者に対しては不幸な自分を改善して新しい自分へと生まれ変わろうとする意志が感じられず、好感が持てない。


 その逆に、自らの不幸について毎日のように語る人に対しては「あなたねぇ、『不幸だ、不幸だ』って語れることは、幸福なんだよ」という気持ちになることがある。
 というのは、本当に不幸な人は、不幸だと語る元気さえないことが多いからだ。愚痴を発散できるってとても幸福なことなんだよって。


 ところで、不幸な人が書く「幸福論」というのは、だいたい次のようなものになる。

①「不幸な現在の自分」が、それでもすがりつこうとする「プライド」(高慢)について語る。

②「幸福な者の条件」として掲げるものに、そう語る当人自身がまったく該当していないのに、かたくなに該当していると思い込んでいる。

「裸の王様」であるのに自らを欺き、自分こそすべての幸福を手に入れた幸せ者である、と思い込んでいる。

④自らが幸福であるという論拠がすべて過去の話ばかりであり、現在の状況についていっさい触れられていない。

⑤周囲の人間は「あなたこそ不幸者だ」と思っていて仕方なしに話を聞いてあげてるのに、自らが描く「愚か者像」が、自分自身であることにまったく気がついていない。


 毎日のように自分以外の者を愚か者だと罵り、毎日のように幸福について書く者は、だいたい上のような特性を持っている。一言でいえば、虚飾の塊であり、本当に不幸のどん底にいるのに、プライドだけは捨てられないんだな、と暗澹たる気持ちになる。かといって、「あなたがそれでいいと思うなら、それでいいんじゃない?」とも思うから、こちらから語りかけたいとは、さらさら思わない。だって、あなたは幸福なんでしょ?


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記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします