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📖大岡信 | 百人百句📖

 先週、図書館で、大岡信「百人百句」(講談社、2001)を借りて、少しずつ読んでいる。
 文字通り、春・夏・秋・冬と新年・無季に分け、代表的な俳句を百句紹介した本である。



 一句ごとに、数ページの説明がついている。
 5-7-5にこれほどのことが盛り込まれているのか?、と驚くと同時に、予備知識がなかったら、ここまで読み取ることは不可能なのではないか?、というアンビバレントな気持ちになる。


 noteでも俳句の応募や習作の記事をよく見かける。
 
 なるべく先入観を持たないように、誰が作ったものなのかということを忘れて読もうとしていた。誰が書いたかが重要なのではなく、作品そのものを鑑賞したいという思いが強かったからだ。

 しかし、noteに投稿される俳句は、「仲良しさん」の俳句だと、普段どのようなことを考えているかという「文脈」が分かるから理解したり共感したりできるのだが、全く存じ上げない方の俳句だとよく意味が分からないことがある。

 正直に言えば、「なんでこんなつまらない俳句を評価するんだろう?」「なんでこんなに素敵な俳句なのにほとんどコメントすらないのだろう?」と思うことが多い。

 もしかしたら、「俳句は作品それ自体で鑑賞するべきだ」という私の従来の考え方が間違っていたのではないか?、と反省している。

 小説や詩などの文学作品を読むときも、目の前にある作品だけでなく、どういう時代に書かれた作品なのか?、執筆当時作者はどのような境遇にあったのか?、ということを意識することは普通のことである。

 俳句もそれと同じなのではないか?

 noteに発表される俳句も、作者の人となりをある程度知っている場合は、感情移入しやすいが、未知の人の作品は理解しにくいし、感情移入はしにくい。

 文脈がわかる俳句が評価されやすいような気がする。

 いい俳句・悪い俳句。相対的に評価することは、可能なのだろうか?
 意外と、「芭蕉が作った句だから」という理由で評価されている句も多いのではないか?

 俳句だけを読んだら、「岩にしみ入る」という表現は、「はぁ?、だから何?」という感じがしてしまう。私だけだろうか?
 解説を読むと「すごい!」と思うのだが… …

 

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