エッセイ | 死とは夢を見ることが二度とないということだ
最近、ワクワクするような夢を見なくなった。
この記事の中でいう「夢」とは、将来こうなったらいいなという夢ではなく、寝ているときに見る夢のことである。
今でも夢を見るが、ろくな夢はみない。事件に巻き込まれて、無罪を主張しているのに有罪になったり、パラシュート🪂が開かずにそのまま落下したり。楽しい夢というものを見なくなった。
十代の頃は、寝ることが楽しみだった。二本立てあるいは三本立ての映画を見るような気持ちで布団に入っていた。あり得ないくらいすご~くかわいい子に出会ったり、鯨と一緒に地球一周を泳ぎきったり。
日本語の夢にも、英語のdreamにも、「将来の夢」という意味と「寝ている時に見る夢」という意味の2つがある。
まったく異なるもののように思えるが、言語を越えて同じ言葉を使うからには、やはり共通点があるのだろう。
将来への希望に満ちあふれているときには、寝ていてもいい夢が見られる。絶望的な気持ちのときは、いい夢を見ない。
夜にいい夢を見ないのは、将来を悲観しているからだろうか?不安が寝ている時にも心を覆っているからだろうか?
昔、夢の百科事典みたいな本があったと思うが、当然のことながら、私が見た夢とまったく同じものはなかった。
夢というものは、目覚めたときには、忘れてしまっていることのほうが多いという。もしかしたら、絶望の時にも、いい夢を見ているかもしれない。
もしかしたら「将来の夢」というものも、達成されたり、あるいは不可能だと悟ったとき、忘れてしまうものなのかもしれない。
死ぬ瞬間、もう目が二度と覚めることがないとき、どんな夢を見るのだろう。もう将来というものが何もないときに。一番最後の瞬間に、人はなにを考えているのだろう?
誰も死後、目覚めた者はいない。知るよしもない。
追記
最近、noteはもう辞めようかな、と思っていました。
記事はいくらでも書けるのですが、私しか書けないことなんてないんじゃないかと。私は自分の肉声で、記事を書けているんだろうかと。
すごい人はいっぱいいますしね。
もうすでに、この世の中にはたくさんの著作物もあり、SNS上には私の言いたいことが書かれている。そこに付け加えるものなどない。
けれども、noteでは、そういうタイミングで、記事が紹介されたりサポートをいただくことがあります。
きちんと正確に読み取ってくださる方が少なからずいる。
今は、もう少しだけつづけてみようかな、という感じです。
下書きの記事は、まだありますし。
同じような思いのnoterもいらっしゃるようです。
1人でも2人でも、私の記事でなにかしら思い、考えてくださる方がいる限りは、もう少しだけ。
記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします