夕焼けに思うこと
数分後の同じ場所。
暦の上では、午前零時(0:00というべきか24:00というべきか)をもって1日が終わり、そして始まる。
しかし、気持ち的には、夕焼けを見ると1日が終わったな、という感じがする。
正確に言えば、美しい夕焼けを見ると、その日にあったいいことも悪いことも一瞬忘れて、ただ、ぼーっと眺めている感じだ。
学校でも仕事でも買い物に行っても、私たちはいつも「言葉」に囲まれている。聞く言葉、読む言葉、自ら話す言葉。あるいは言葉を発しなくても、相手の気持ちを忖度したり、自分のすべきことや思いを言葉によって考えている。
私は、言葉にはとても関心があるけれども、ずっと言葉に囲まれていると疲れる。
疲れたときには言葉を使うことをやめたいのだが、「言葉をやめたい」というのも、言葉で考えている。
覚醒している間に、言葉を忘れることができるのは、夕焼けを見ているときではないか?、とちょっと思った。
西田幾多郎「善の研究」。
自己と対象物という区別のない、主客未分の状態を西田は「純粋経験」と呼んだ。「善の研究」を読んだときには、字面の意味はなんとなくわかったが、腑に落ちるような理解ではなかった。
間違っているかもしれないが、夕焼けを見ているとき、「私」という自我は意識から消えている。ただ、目の前に「夕焼け」という現象が立ち現れているように思う。
夕焼けを見終わって、自宅に帰るとき、ただ、ぼーっと夕焼けを見ていたあの瞬間は、紛れもなく「純粋経験」だったのではないか、と思った。
話は変わるが、4月に新入生、あるいは、新社会人になった方々も、精神的につらい思いをたくさんしてきたと思う。しかし、夕焼けの瞬間は、一瞬でもすべてを忘れて、ほっと一息できていればいいな… …なんてね。
今日の夕焼けを見て、また明日の夕焼けを見るために。
PS
昨日、言織さんの記事を久し振りに読むことができました。とても嬉しかったです。今日の夕焼けを見終わったとき、言織さんのことを、ふと思い出しました。
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