マガジンのカバー画像

羊の瞞し

42
残酷な運命に翻弄される、二世調律師の成長譚。物語はフィクションですが、楽器業界のリアルな裏話を交えながらお届けいたします。約22万文字の長編になります。
運営しているクリエイター

2023年12月の記事一覧

羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(6)

羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(6)

(6)釣果

 突然、声を荒立てた松本に、絹代は少し動揺すると同時に、松本がこのピアノのことを真剣に考えていると信じ込む様子が見て取れた。もちろん、松本はその効果を狙っていたのだが。
「でも、このピアノを貰っても、迷惑じゃないかって……」
「勘違いしないでください。酷いのはピアノじゃなくて、状態です。このピアノは、ものすごく価値のある素晴らしい楽器なんです。捨てるだなんて、そんな悲しいこと……今は

もっとみる
羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(7)

羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(7)

(7)騙すこと、騙されること

 ピアノ専科の事務室に戻った松本は、真っ先に社長室へ向かい、報告に上がることにした。
 榊との面会は、特にこの数ヶ月は、気分が沈み足取りも重く苦痛でしかなかった。しかし、この時ばかりは、数ヶ月ぶりに胸を張って入室出来た。もちろん、これぐらいのことで、ここ数ヶ月の目も当てられないような惨めな結果を帳消しにしてくれるほど、甘い会社ではない。それでも、今朝の叱責を糧にして

もっとみる
羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(1)

羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(1)

(1)はじまりのノクターン

 築七年の、小さな店舗付き住宅。
 豪華でも機能的でもなく、ましてやお洒落でもない平凡な中古物件だが、松本宗佑にとっては生活と仕事の拠点であり、誇らしい城だった。音楽教師でもある妻の美和と共に、コツコツと貯めた貯金を頭金にして、ようやく組めた住宅ローンで「城」を手に入れたのだ。
 一般的に、自営の調律師が自宅ローンを組もうと考えても、審査を通るのはかなり厳しいと言われ

もっとみる
羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(2)

羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(2)

(2)家族のノクターン

 職人肌の宗佑には、新規顧客を開拓する営業スキルが致命的に欠けていた。しかしながら、高度な技術力は確固たる評価に繋がり、調律の継続率は90%以上という驚異的な数値を記録していた。
 独立した時の年間調律台数は、自営のボーダーとされる300台を少し割っていたのだが、宗佑の場合は継続的に修理の仕事が入っていた為、収入は十分に確保出来ていた。
 また、実施した修理の出来映えの良

もっとみる
羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(3)

羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(3)

(3)崩れゆくノクターン

 家族三人で暮らす古い店舗付き住宅は、小学生の響にとっては楽園のようだった。学校から帰ると、毎日のように工房へ降りていき、父の作業を見学した。三年生になる頃には、念願の工具を手にし、簡単なお手伝いもやらせて貰えるようになった。
 中でも、響はフレームを取り外す作業が好きだった。弦やボルトを外したグランドピアノのフレームの三ヶ所にロープを結び、チェーンブロックで引き上げる

もっとみる
羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(4)

羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(4)

(4)凋落のノクターン

 響が高校三年生の夏のこと。ある日の夜、松本家は珍しく親子三人で食卓を囲んでいた。おそらく、数週間振りのこと。いや、夕食に限ると、下手すれば数ヶ月振りかもしれない珍事だ。家族団らんとは程遠い冷め切った空気の中、それでも張り詰めた緊張感にはならないところが一応家族である所以かもしれない。
 余所余所しい雰囲気の中、宗佑は、何とか話題を探そうと模索しているようだった。反対に、

もっとみる
羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(5)

羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(5)

(5)訣別のノクターン

 調律学校での響は、ズバ抜けて成績が良かった。
 もっとも、小学生の頃から父の工房で作業を手伝い、部品や工具の名称を覚え、アクションの構造を理解し、音やタッチの調整を目の当たりにしてきたのだ。更に言えば、高学年になる頃には、簡単な作業も熟すようになり、調律もユニゾンやオクターブを合わすぐらいは出来るようになっていた。つまり、同級生が二年間の学校生活で学ぶことの大半を、響は

もっとみる
羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(6)

羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(6)

(6)最後のノクターン

 美和と宗佑は、協議の末、正式に離婚した。美和が家を出て、僅か五日後のことだ。離婚届を手に、荷物整理を兼ね一時的に帰ってきた美和は、妙にサバサバしていた。
 その晩、家族三人で淡々と話し合った。不思議と誰も感情的にならず、事務的な意見交換だけだ。
 美和の決意は固かった。慰謝料も財産分与もなし。もちろん、二十歳になり、就職も決まった響への養育費はなし。もっとも、学費は全額

もっとみる
羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(1)

羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(1)

(1)羊は歩き出す

 国内最大手の楽器メーカー『KAYAMA社』の特約店である興和楽器は、県内最大のフロア面積を誇る総合楽器店だ。ピアノはもちろん、管弦楽器やLM楽器など様々な楽器を販売し、それらの教則本や周辺アクセサリー、専門書まで、総合的な販売業務だけでも全国有数の大型ショップとして周知されている。
 また、ピアノ調律をはじめとした楽器のメンテナンス業務、貸しスタジオや音楽教室の運営、楽器レ

もっとみる
羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(2)

羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(2)

(2)初めての実践

 響は、梶山から送られたリストに再度目を通すと、幸いなことに本社のレッスン室が五部屋分も入っていることに気付いた。先ずは、慣れることも兼ねて、この五台からやってみることに決めた。
 教室担当者にレッスンの空き時間を教えてもらうと、今すぐ取り掛かれるピアノが三台もあった。但し、どの部屋も調律が可能な時間は15:30までとのこと。今はまだ十時前。なので、午前中に一台終らせ、午後か

もっとみる
羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(3)

羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(3)

(3)羊の親分

 何度繰り返しても、調律が思うように収まらない原因は、すぐ目の前にあったのだ。この部屋は、エアコンの吹き出し口が天井にあり、ピアノに直接冷風を吹き付けていたからだ。
 特に、調律中は屋根を全開にする為、弦が剥き出しになり、より影響を受けやすくなる。金属は温度変化により伸縮する。夏なのに、ピッチが高くなっていたのも、冷風による影響を日常的に受けていたからだろう。そう、最初からヒント

もっとみる
羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(4)

羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(4)

(4)備品調律

 梶山との食事を終え帰宅した響に、宗佑は大して関心もなさそうに「今日はバイトは?」と問いかけた。その様子が、あまりにも呑気で緊張感がなくて、響は少し苛立った。
 そもそも、正社員として定時まで働いた後に、何故バイトをしなくてはいけない状況なのか? 誰のせいで、響がこのような境遇に陥ったのか? その一番の要因である宗佑が、家計や収入に無関心なことに響は腹が立った。同時に、少しだけ、

もっとみる
羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(5)

羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(5)

(5)Träumerei

 昼食を終え、三原池センターに戻った二人は、先ずは午前中に響が調律したレッスン室に向かった。調律のチェックだ。
 ピアノ椅子に腰掛け、無言で試弾する梶山の傍らで、響は緊張の面持ちで講評を待った。梶山は尚も無言のまま、長三度、完全五度、オクターブ、2オクターブなど、様々な検査音程で唸りを確認する。そして、徐にピアノの演奏を始めた。バッハのインベンションだ。
 お世辞にも上

もっとみる