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羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(4)

前話目次

(4)凋落のノクターン

 響が高校三年生の夏のこと。ある日の夜、松本家は珍しく親子三人で食卓を囲んでいた。おそらく、数週間振りのこと。いや、夕食に限ると、下手すれば数ヶ月振りかもしれない珍事だ。家族団らんとは程遠い冷め切った空気の中、それでも張り詰めた緊張感にはならないところが一応家族である所以かもしれない。
 余所余所しい雰囲気の中、宗佑は、何とか話題を探そうと模索しているようだった。反対に、美和はあからさまに会話から逃れようとしている素振りを見せる。居た堪れなくなった響は、場を取り持つために思い切って両親に告白した。
「ねぇ、二人共聞いてよ。俺さ……調律師になりたいんだ」

 高校三年生の夏は、一般的には進路の希望がほぼ定まっており、受験や就職に向けて、最も大切な準備に充当すべき時期だろう。そんな中、態度を明確にせず、保留状態のままダラダラと過ごす響を、宗佑と美和は話し合うことはないにしろ、個々に心配はしていた。進学にせよ就職にせよ、反対する気はなかったが、どっち付かずで何の準備も活動もしない響を心配していたのだ。
 だが、調律師を志望することに関しては、両親とも積極的な応援は躊躇してしまう。宗佑を嫌悪する美和は、息子には父の様になって欲しくなかったし、宗佑自身もまた、ピアノ業界の厳しさを身にしみて熟知している。

「調律師になるって……響、まさか本気で言ってるの? 大学はどうするのよ?」
 美和は、宗佑の目の前なのに、調律師という職業への不快感を隠そうともせず、怪訝な表情で響に問い掛けた。
「別に、お父さんの後を継ごうなんて思ってないよ。普通に楽器店に入って、コンサートとか外回りの調律がしたいんだ」
 響が、どうやら思い付きで語っているのではなく、その決意が固そうなことは、両親には確実に伝わったようだ。
「お前な、調律師になりたいって、はいそうですか、ってなれる仕事でもないぞ」
 宗佑も、決して諸手を挙げて賛成しているわけではない。しかし、響の選択には、自身の職業が間違いなく影響していることは明らかだ。
 それに、事業が順調に運べているなら、後を継いで欲しいのも本音ではある。当然ながら、開店休業状態の現状でそんな話を出すつもりもないが、同じ職業を目指すことには、満更反対でもないのだ。

 宗佑にとっては、もう一つ大きなネックがあった。お金だ。
 調律師になる為の、最も一般的で、最も確実な近道は、全国に数校存在する専門学校で学ぶことだろう。そこでは、合理的にシステム化されたカリキュラムと整った設備の中で、必要最低限の知識と技術を効率的に学べる環境が提供されている。昔ながらの丁稚奉公という手段もあるにはあるが、今の社会では理に適わないと言わざるを得ない。
 しかし、専門学校は、経済的負担の大きいことが最大の欠点だ。授業料や工具代など、掛かる費用は年間100万円では収まらないだろう。それに、殆んどの調律専門学校は、二年制だ。おそらく、300万円程度は覚悟しないといけない。今の宗佑の売上では、とても払えない。この先も、向上する見込みが全くない。頼れるのは、美和の収入だけ……なのに、その美和が、調律師という選択を歓迎していない。
 そこまで考えても、宗佑は「それなら自分が何とか頑張って……」という積極的な考えに至らないのだ。そう、事業が好転すれば全てが解決するのだが、宗佑は、いつしかそこから目を背ける癖が付いていた。

「大学には行かずに、専門学校に行くの?」
 この美和の問い掛けに、響は待ってましたとばかりに説明を始めた。
「うん、学歴なんてほとんど関係ない世界だし、早く始める方が何かと有利かなって思ってる。調律の学校はね、メーカー運営の学校、っていうか養成所なんだけど、そこは販売店の推薦がないと入れないんだ。だから、普通の専門学校を調べたんだけど、全国に数校あるみたい。テストは、簡単な適性検査と筆記と小論文と面接だけで、平均的な学力があればまず受かるらしいんだ。ちょうど梅丘市にも一校あって、全国から学生が集まるぐらい評判も良くてね。それに、梅丘市なら電車で通えるし、専修学校だから学割定期も使えるって。一応、卒業したら短大卒扱いになるみたいだし、ここを受けてみたいんだけど……いい?」

 美和は、数年前から決心を固めていた。響の教育が終わるまでは、責任を持って見届けようと。
 家のローンはあと十数年残っているが、響が大学を卒業したら——大学に行くと思い込んでいただけだが——宗佑と離婚するつもりだった。家も財産も要らない代わり、残りのローンも払うつもりはない。それに、美和は、宗佑や響に言えない事情も抱えていた。その為にも、一刻も早く離婚したいというのが本音だった。
 そもそも、この家一つとっても、頭金こそ折半したが、宗佑がローンを払ったのは最初の数年だけ。後は、美和が一人で返済してきた。
 幸い、法的な名義は数年前に宗佑に移していた。その際、ローンの引き落とし口座も宗佑の口座に切り替えた。と言うのも、それを機に、本当は気持ちを入れ替えて仕事に精を出し、せめてローンぐらいは払えるようになって欲しかったからだ。残念ながら、そんな美和の思いなんて、宗介には全く伝わらず、仕事を立て直そうとする意識さえ見せることはなかった。
 結局、毎月美和が振り込んでおかないと、宗佑の口座にローンのお金が残されていたことなどなかった。もしかすると、宗佑は、どうやってローンや光熱費などが支払われているのか、毎月幾らぐらい掛かるのかさえ、知らないのかもしれない。
 そんな宗佑が、今後どうやってやりくりしていくのか不安ではあった。現実的には、響に皺寄せがいくとしか考えられない。そう思うと、響には申し訳ない気持ちで一杯だった。響には、幾らかまとまった貯金を残しておくつもりだが、数ヶ月凌げる程度だ。やはり、宗佑が奮起しないことには根本的な解決には至らず、いずれ破綻するだろう。
 そこまで分かっていても、美和には既にここは息苦しい空間に成り下がっており、いつまでも居続ける意味は見出せなくなっていた。それに、響ももう子どもではない。どの道、独り立ちする時期でもある。



 高校を卒業した響は、結局、隣市の梅丘市にある「全日本音楽院楽器技術部ピアノ調律科」に入学した。入学金、授業料、工具代、テキスト代、その他諸経費の全ては、美和が負担することになった。宗佑の稼ぎでは、響の学費どころか、通学定期代すら払えないのだ。
 宗佑は、もはや美和の寄生虫だ。週に数件、訪問調律を行っているだけ。それも、年々減っている。かと言って、切羽詰まっている自覚もなく、仕事を広げる努力もせず、転職を考えることもなく、副業を探すこともせず、毎日ダラダラと過ごしている。
 美和の収入なくして、家計は全く成り立たない。殆んど使われなくなった工房の機材も、ロクにメンテナンスをしていない。実質の稼働期間は、僅か数年のみという無駄な投資だったようだ。
 天井から虚しくぶら下がったままじっと佇むチェーンブロックも、今では風景の一部でしかない。

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