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羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(3)

前話目次

(3)崩れゆくノクターン

 家族三人で暮らす古い店舗付き住宅は、小学生の響にとっては楽園のようだった。学校から帰ると、毎日のように工房へ降りていき、父の作業を見学した。三年生になる頃には、念願の工具を手にし、簡単なお手伝いもやらせて貰えるようになった。
 中でも、響はフレームを取り外す作業が好きだった。弦やボルトを外したグランドピアノのフレームの三ヶ所にロープを結び、チェーンブロックで引き上げるのだ。
 不安定な形状のフレームの重量は100kg以上もあり、バランスよく持ち上げないと危険なのだが、宗佑は三本のロープの長さを絶妙に調整し、いつも一発で水平に持ち上げたのだ。ループチェーンの片方を引き下げると、ガガガッと音を立てながらジリジリとフレームが持ち上がるのだが、いつも響は力持ちになった気分になれた。
 一定の高さまで上がると、ほとんど全ての金属を除去され木箱のように変貌したピアノ本体を脇へ除け、そこに、「馬」と呼ばれる専用の台をセットする。馬の上にフレームを下ろすのだ。
 下ろす時は、上げる時とは反対側のチェーンを引くのだが、下ろし始めはガツンと大きな抵抗が掛かり、そのまま一気に落下しそうな錯覚に襲われ、何度やっても緊張したものだ。しかし、一度動き出すと、あとはスムーズにスルスルと下りるので恐怖心は消え去った。

 響は、宗佑の仕事を手伝いながら、少しずつピアノの構造や部品の名前も覚えていった。もっとも、意欲的に学んだわけではなく、自然と身に付いたのだ。更に、高学年になる頃には、発音の原理も理解出来るようになった。中でも、ハンマーと呼ばれる部品が大切な役割を果たしていることも知った。
 宗佑は、ハンマーに触れただけで音を予測出来たようだ。バラしたハンマーを手にしては、「これじゃダメだ、こいつは酷い」などと呟く宗佑に、よく「何が違うの?」と聞いたものだ。響には、どれも大した違いはないように見えたからだ。
 ハンマーは、木材に羊毛を硬く巻き付けた部品で、弦を叩く役割を担う重要なパーツだ。ハンマーに叩かれた弦の振動は、駒を伝って響板全体に広がり増幅され、ピアノの音になる。つまり、ハンマーは直接音を出す部品ではなく、音を出させる部品なのだ。
 しかし、ピアノの音となる弦の振動は、ハンマーの質により多大な影響を受けている。重量や形状、フェルトの質、弾力性、硬さ、弦との接触時間と接触面積など、様々な要素が複雑に絡み合って作用し、振動を微妙に変えるのだ。響には同じように見えるハンマーも、宗佑は微かな差異を敏感に掴み取っていたのだろう。
 実際に、宗佑はハンマーに様々な細工を施し、ピアノの音色を変化させた。ヤスリで削ったり針を刺したり、焼きゴテを当てたり、薬品を注入したり。響には、何がどう変わったのかよく分からなかったが、いつも音色が劇的に変化することに驚かされた。
 そして、音が変わると、何故か弾き心地も良くなった。不思議な現象だ。そんな父の作業が魔法のように思え尊敬もしたし、理解の範疇を超えた技術を不気味にすら思った。

「見た目じゃ分かんないのに、何でこんなに変わるの?」って聞くと、「見た目で分かろうとしたらダメだよ。音もタッチも、目に見えないだろ? 人間もピアノも羊もハンマーも、見た目だけなら何とでも誤魔化せるんだ」と軽くいなすように諭された。
 ただ、外見で判断してはダメなんだってことだけが、響の心にいつまでも残った。



 数年が経ち、響が中学生になると、工房に降りていくことはほとんどなくなっていた。急に親離れを始めるナイーブな思春期ということもあるが、宗佑の仕事も減っており、見るものもなかったのだ。
 美和によるピアノのレッスンは、継続していた。音楽系の部活に入り、アンサンブルの喜びを知り、ピアノ演奏の楽しさも再確認したようだ。
 実は、この頃の松本家では、響の知らぬ所で様々な綻びや亀裂が入り始めていたのだ。宗佑の仕事が激減し、生活費の殆どを美和の収入に依存するようになっていた。響の前では上手く取り繕っていたものの、夫婦仲は完全に冷え切っており、特に美和は夫を毛嫌いし始めていた。

 響が高校生になると、宗佑の工房は開店休業状態になっていた。工房作業に限らず、週に数件の外周り調律を行う以外、宗佑には仕事のオファーがなかった。
 一方で、公務員の美和は学年主任となり、多忙を極め、連日帰宅が遅くなった。時間的に響のレッスンは出来なくなり、日常の家事も追いつかなくなっていた。必然的に、家事は宗佑が担当しないといけないのだが、宗佑は自分に仕事がないことを、家事をやらせるからだと美和に八つ当たりすることもあった。
 その頃には、響も流石に両親の不仲を察知していた。仕事をしない父の不甲斐なさを嫌悪し、高収入を盾に傲慢に振舞う母を拒絶するようになった。

 居場所がない家の中で、かつて感じた楽園の面影を失くした家の中で、響にとっての唯一の慰めがピアノだった。
 シンナーや木屑の匂いが消えた工房に降りていき、毎夜一人でピアノを弾いた。すると、ピアノの音が日常の雑音を掻き消してくれ、不思議と心が落ち着いたのだ。
 ショパンのノクターンを弾きながら、毎日が楽しかった小学生時代を思い出した。父を尊敬し、母の温もりに安らいだ日々を懐かしみ、現実から束の間だけ逃避した。

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