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羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(7)

前話目次

(7)騙すこと、騙されること

 ピアノ専科の事務室に戻った松本は、真っ先に社長室へ向かい、報告に上がることにした。
 榊との面会は、特にこの数ヶ月は、気分が沈み足取りも重く苦痛でしかなかった。しかし、この時ばかりは、数ヶ月ぶりに胸を張って入室出来た。もちろん、これぐらいのことで、ここ数ヶ月の目も当てられないような惨めな結果を帳消しにしてくれるほど、甘い会社ではない。それでも、今朝の叱責を糧にして、その日のうちに結果へと繋げたことは、ささやかながらもポジティブに受け止めてもらえるだろう。

「報告いたします。先程、移動依頼の漆原絹代様宅へ下見に行きました。D難度で総額九十三万円の見込み、降水確率は10%、以上です」
「よし、良くやった。来月からも頼んだぞ」
「ありがとうございます。この数ヶ月のご迷惑を取り戻すべく、明日からも気合いを入れて精進します」
「そんな言葉は要らん。結果で語れ」
「はい、分かりました」
 退室する松本を、榊にしては珍しく、柔らかな笑顔で見送った。

 榊は瞬時に計算していた。まだ二週間弱あるとは言え、松本の今月の売上げは何とか250万円ってところだろう。ノルマ割れは確実だ……と。
 それでも、土壇場で見せた彼の意地に、そして、今朝の会議での叱責を即日結果に結び付けた強運と根性に、榊は満足したのだ。
 そして、思った。そろそろ、松本を解放してやらないといけないな、と——。



 その夜、帰宅した松本は、一人で祝杯を挙げ、デリヘルを呼んだ。松本の住居は、古い店舗付き住宅だが、一階の店舗部はシャッターを下ろしたまま、長年足を踏み入れることなく放置されている。
 そこは、かつてピアノ修理工房として使っていた。その名残から、今でもコンプレッサーやチェーンブロック、ボール盤、バフ機、ベルトサンダーなどの機械が所狭しと設置されたままだ。
 しかし、それらは最後に使ったままの状態で、時間が止まってしまった。窓に掛かったブラインドも中途半端に上がったままで、まるで廃墟のような出で立ちだ。片隅には、古い型のグランドピアノが、壊れたレコードプレイヤーのように静かに佇んでいる。
 二階にある2LDKの居住スペースで、松本は一人暮らしをしていた。両親と過ごした日々のことを、意識的に思い出さないようにしている。温もりと愛情に溢れていた記憶を封印し、いつしか殺風景で無機質な部屋になったことも、特に寂しく感じることすらなくなっていた。

 しかし、時折、父の形見のチューニングハンマーと音叉を取り出しては、物思いに耽ることもあった。こんな筈じゃなかったのに……と自分の人生をつい振り返ってしまうのだ。
 古い音叉をポーンと鳴らしてみた。微かに聞こえる440hzの正弦波。しかし、音叉のテール部分をテーブルに付けると、何倍にも増幅された音が静まり返った部屋に鳴り響く。妙な温かみを帯びた音に包まれると、催眠術にかかったかのような瞑想状態になり、そのまま自己を見つめ直していた。
 人を騙すことに抵抗がなくなったのか? と問われると、答はノーだ。高齢者を騙すことに、そして、その為にピアノを利用していることに対する罪悪感から、松本は一度たりとも解放されたことはなかった。杉山や草薙のように、ゲーム感覚で楽しみながら仕事に取り組む同僚もいたが、松本にとっては、後ろめたさや罪悪感との闘いだった。
 もう、こんなことはやめよう。人を騙す為に調律師になったのではない——。
 チューニングハンマーを握りしめ、そう決意しようとするも、なかなか一歩が踏み出せないでいる。自分を取り巻く諸々の現状を鑑みて、どうしても尻込みしてしまう。それに、残り百を切ったとは言え、まだ榊へのケジメは果たしていないことを思い出し、詐欺を続ける言い訳に転嫁する。
 本当なら、このチューニングハンマーを使って、普通の調律師として生きるつもりだった。いや、それは今からでもやろうと思えば出来る。榊に真剣に頭を下げれば、きっと分かってくれるだろう。
 松本は、おそらく世界でもレアな、榊のことを理解している人間だ。こんな詐欺商法の片棒を担ぎ、パワハラ紛いの扱いに抗わず、法もモラルも無視してこき使われても、榊の元を離れるつもりはなかった。そう出来ない事情もあったが、それ以上に昔の榊に恩義もあったし、感謝もしていたのだ。
 沢山のことを犠牲にしてきた人生だが、それは榊の責任ではない。自分の責任だ。むしろ、松本が今、普通の生活を送れているのは、何度か訪れた人生の節目で、いつも力を貸してくれた榊のおかげと言えるだろう。
 そう、今の松本には、榊に付いていくしかない。人を騙したくなくても、人を欺くことでしか生きる術が無い。結果、自分を偽ることで、辛うじて心の均衡を保つ毎日だ。



 予約時間より十五分も遅れて、デリヘル嬢が来た。若い巨乳の子とリクエストしたのだが、やって来たのは何処かで見覚えのある女だった。さて、どこで会ったのだろうか……と記憶を辿ると、直ぐに答が分かった。日中にファミレスで話し掛けてきた女だと思い出したのだ。
 幸い、人と目を合わせられない女は、松本のことを覚えていないようだ。いや、気付いていようがどうでもいい。松本は、乱暴に女の衣服を脱がし、大きな乳房にむしゃぶりつき、立ったままセックスした。会話も前戯もなく、荒々しく、いきなり挿入を試みる行為に、最初は戸惑い抵抗も見せた彼女だが、結局は松本を受け入れた。おそらくだが、早く済むならそれもアリと判断したのだろう。
 愛のない性欲の処理は、ほとんど「作業」とも言える行為だが、所詮女も「労働」に過ぎない。作業と労働……そこに、大した違いはない。しかし、女の下手な演技と白々しい嗚咽は、性的な快楽などないことを物語る。「労働者」として二流だな……急激に近付く射精を促す快楽の波を前に、松本はそう「査定」した。
 そして、やっぱりコイツは化粧が濃いな、と再確認した。しかも、間近で見ると、思ったより歳を食っていたし、期待していた乳房も少し大きいだけで、張りがない上に垂れ気味だ。おまけに、乳首や乳輪の色も好みじゃなかった。
 松本は、期待外れの「商品」に三万円も請求された。価値の乖離だ。

 こういった相場や価値から逸脱した見積りと請求は、いつも自分自身がやっていることだ。因果応報なのか……ただ、不思議なことに、数ヶ月振りにD難度を取れた日だからか、満足なセックスでもないのに損した気分にはならなかった。
 そう、どれだけボラれようが、損したと思わない限り、人は怒らないのだ。むしろ、それが妥当だと思えば納得するし、得したと思わすことが出来れば喜びさえする。最低でも、ターゲットに騙されていると思わせないこと、或いは、騙されていることに気付かせないことが、詐欺を働く上で最も重要なのだ。

 漆原絹代も、騙されていることに全く気付いていない。むしろ、旦那の大切さな遺品が再生され、娘の自宅に運ばれ、孫が愛用する……そう信じて止まないのだ。
 それに、表向きは本当にその通りになるのだ。もちろん、修理は契約の内容通りには実施しない。「超」が付くほど手抜きで行うし、金額もぼったくりだ。でも、それに気付く人はいるのだろうか?
 気付かなければいい、という話でもないが、少なくとも、出費者の絹代は、騙されていることに気付かない限りは満足している筈だ。
 今日は、たまたま松本の気分が良かった。女はコンテンツもサービスも失格だが、客を怒らせずには済んだ。どうであれ、それはそれで成功なのだ。たとえ、それが彼女の功績でなくても、判断材料は結果だけなのだ。
 同じように、絹代が騙されたと感じない限り、いや、極論では、騙されたと分かっても、支払い額に対する結果に納得さえしていれば、商売は成功なのだ。

 女を下まで送ると、迎えの車が待機していた。運転手は、例のヒョロヒョロの馬鹿だ。幸い、男は松本に関心がなく、見ようともしない。でも、もし目が合うと、夜とは言え松本に気付く可能性もある。揉め事を起こした相手に、自宅を知られるのは好ましくない。これからはホテルを使おうと決意した。そして、次からは、違うデリヘル業者を利用しようと思った。
 そう、客は些細なことで、依頼先を変えるもの。それに、ネットユーザーは、相場を調べ、他店と比べるものなのだ。松本は、その辺りのユーザー心理を、身をもって実感した。

(次へ)



本日をもちまして「第1章 MELANCHOLICな羊」は終了です。

次回から、第2章が始まります。
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