羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(6)
(6)釣果
突然、声を荒立てた松本に、絹代は少し動揺すると同時に、松本がこのピアノのことを真剣に考えていると信じ込む様子が見て取れた。もちろん、松本はその効果を狙っていたのだが。
「でも、このピアノを貰っても、迷惑じゃないかって……」
「勘違いしないでください。酷いのはピアノじゃなくて、状態です。このピアノは、ものすごく価値のある素晴らしい楽器なんです。捨てるだなんて、そんな悲しいこと……今はただ、何と言うのか……そうだな、カール・ルイスが怪我をしてるようなものですよ」
敢えて、古い偉人の名前を使って喩える……これも、松本が得意な話術だ。そうすると、世代のギャップが埋まり、無意識に相手は親近感を抱くそうだ。美空ひばり、プレスリー、千代の富士、山口百恵、長嶋茂雄……など、松本は、常に何パターンかの喩え話を準備していたのだ。
案の定、絹代は真剣な眼差しで松本の話に耳を傾けている。
「直せば良いんですよ。カール・ルイスだって、怪我をしてたら速く走れないけど、怪我が治ればまた速く走れますよね? こういう名器は、修復すれば生き返りますし、優に百年は使えるのです。それに、新品の高級品よりも、このピアノを修復した方が良いに決まってる。素材が違いますからね。今はね、どれだけお金を出しても、こんなに良い木材は手に入りませんから! 仮にあったとしても、シーズニングと言いましてね、良い木材は長年寝かせるほど、より良い状態になるのです。だから、今の時代では、作りたくても絶対に作れない貴重なピアノですよ、これは」
「そうなんですね。私もね、本音は使えるなら使いたいんだけど、でも……直すと言っても、幾らぐらい掛かるのかしら?」
もう、絹代は完全に修理して使う方向に考えが向いているだろう。ここで大切なことは、決して急がないことだ。そして、結局は利益が目的なんだな、と思われないように、お客様の考えを尊重しているように装わないといけない。
「それは、何処まで直すかにも依りますね……」
「どういうこと?」
「一般論になりますけど、こういうことは、結局はお客様の価値観とか使用目的次第なんですよ。私なら完璧にした方がいいと思っても、お客様はそうとは限らないですからね。例えば、最低限使えれば良いのか、お孫さんが大きくなるまで問題なく使いたいのか、外装はこのままで良いのか、ある程度綺麗にしたいのか、塗装をやり直すのか、他にも色んな条件がありましてね、幾ら掛かるかは内容によって大幅に違ってきます」
そう説明しながらも、絹代の表情を注視する。もう、C難度はほぼ確定したと考えていいだろう。そのことに松本は安堵した。出来ればD難度まで持ち込みたいが、強引にならないように慎重な交渉を心掛けた。
「そうねぇ、確かに後からあれやこれやと修理が出てきたら、旦那さんが良い気しないわね。娘の旦那ね、ちょっと面倒臭い方なの。それに、このピアノはね、亡くなった主人がとても気に入ってて、形見のような物だから。出来ればずっと使って欲しいもんでね、折角なんで、徹底的に直そうかしら? それだと幾らぐらい掛かるの?」
松本は、D難度の場合なら四十万円と予め決めていた。その金額を口にしかけたが、今朝の会議での屈辱が頭を過り、一か八かの勝負に出ることにした。
「ザッと見積もった限りなので、後から多少の前後は出てくるかもしれないけど、外装抜きで五十五万円ってところですかね。施工期間は……そうだな、二ヶ月は掛かるかな。念入りにやりたいピアノですしね。アクション、鍵盤、弦、響板、フレームと、全てオーバーホールします」
「あら、そんなものなの? 私、てっきり百万円ぐらいするものだと思ってましたわ。それぐらいなら、是非お願いしようかしら」
松本は、拍子抜けするぐらいの反応に安堵すると共に、内心で少し舌打ちした。もっと吊り上げて良かったのだ。しかし、これでD難度はほぼ確定だ。少なくとも、来月はノルマを下げられず、減給もない。
「外装はどうしましょう? このままでも良いとは思いますが、別途十万円程度でクリーニングも出来ます。専用の機械で研磨するんですが、びっくりするぐらいピカピカになりますよ。それか、いっそのこと全塗装するって手もありますね。ピカピカどころか、見た目は新品同様になります。あとですね、クリーニングも全塗装も運送費込みの金額ですので、もしどちらかやってくださるなら、移動の運送費が無料になりますよ」
ピアノ専科の工房では、ベテランの木村と数名のアルバイトが働いている。調律師上がりの松本と杉山も、空き時間には作業を手伝っているが、アクションの調整や出荷前の調律など、専門技術を要するものだけに限られている。簡単な修理やクリーニングは、全て時給千円程度のアルバイト達にやらせているのだ。
なので、アップライトのクリーニングは、せいぜい二万円程度の実費で済む作業だ。また、全塗装も説明とは裏腹に、実際には塗装なんて面倒なことはしない。より丁寧にクリーニングするだけのことだ。黒の鏡面艶出し塗装のピアノは、素人には全塗装とクリーニングの見分けは付かないだろう。
「その全塗装だとお幾ら?」
「全塗装の場合、提携している塗装屋の見積もりになりますが、おそらく三十万円ぐらいですね」
「そう。じゃ、それでお願いしますわ。本当に運送費は掛からないの?」
「ありがとうございます! もちろん、全塗装やクリーニングの運送費は搬出料とか搬入料も全て込みの金額ですので、修理代と塗装代だけのご負担になります」
「総額85万円ぐらいってことで間違いないのね?」
「本日中にでも、改めてお見積書を作成しますので、正式な金額はそちらをご確認ください。まぁ、85万円からは大きく外れないように約束しますが、申し訳ないのですけど、総額じゃないです。どうしても、消費税は別途掛かってしまいますので、総額だと90万円を少し超えるかな、って感じになります」
「あぁ、そりゃそうですよね。嫌ですね、税金って。分かりましたわ。では、95までと考えてもよろしいかしら?」
「はい、それはもう、私の責任で何があっても95は超えないって約束します! お孫さんもピカピカのピアノが届いたら、そりゃあもう大喜びでしょうね! それと、納めてからの調律とキーカバー、お手入れセットはサービスで付いておりますが、私の独断でトップカバーも新調させて頂きますね」
「勝手にそんなことしてよろしいの?」
「こんなに素晴らしい名器に出会えたのですからね、それぐらいはほんの気持ちです」
「ありがとうね、もう後は松本さんにお任せしますわ」
松本の直感は当たり、この釣堀では久しぶりに大物が釣れた。まず、雨も降らないだろう。