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羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(1)

前話目次

(1)はじまりのノクターン


 築七年の、小さな店舗付き住宅。
 豪華でも機能的でもなく、ましてやお洒落でもない平凡な中古物件だが、松本宗佑にとっては生活と仕事の拠点であり、誇らしい城だった。音楽教師でもある妻の美和と共に、コツコツと貯めた貯金を頭金にして、ようやく組めた住宅ローンで「城」を手に入れたのだ。
 一般的に、自営の調律師が自宅ローンを組もうと考えても、審査を通るのはかなり厳しいと言われている。しかも、この時の宗佑は自営での実績はない。勤めていた楽器店を辞め、これから開業するという状況だったのだから尚更だ。
 では、何故ローンが組めたのか? それは、まとまった額の頭金が用意出来たことと、公務員の妻の存在……いや、その安定した収入による賜だろう。つまり、妻の名義で購入したのだ。
 一階の店舗部は、入居に先立ち、工房へと改築した。天井にはI形鋼を渡し、ローラー付きのチェーンブロックを取り付けた。90kg以上、最大では200kg近くにも及ぶピアノのフレームも、これがあれば一人で取り外せるのだ。
 また、200ボルトの動力電源を通し、ボール盤、ベルトグラインダー、バフ機など、ピアノの修理や整備に必要な機材も揃えた。2馬力のコンプレッサーも購入したので、簡易的な塗装にも対応出来る。個人経営の工房としては、十分過ぎる設備と言えよう。
 狭いながらも充実した工房を見渡し、宗佑は満足していた。愛する妻と息子の三人で、慎ましく、明るい未来を思い描き、幸せの絶頂にいたのだ。まさか、そこから僅か数年で転げ落ちるとは、当時は思いもしなかっただろう。



 松本宗佑は、生真面目でストイックな職人だった。調律師に必須な営業マンとしての資質は皆無ながら、それでも長年職を継続出来たのは、技術の評価が高いからに他ならない。特に、音やタッチに強い拘りのあるピアニストに重宝された。そして、この度の引越しを機に、まさにこの技術力を看板に専用の工房を開設し、独立開業を果たしたのだ。
 実際、宗佑の創る音は変幻自在で独創的だった。平均律とは思えない済んだハーモニー、特殊な細工を施したかのような音の伸び、キラキラと煌めく高次倍音、太く大地を這う低音。ピアノのポテンシャルを瞬時に見抜き、最大限に発揮させる術を心得ていた。
 また、ピアノのセットアップ能力も卓越していた。指に吸い付くようなタッチ感、過不足のないレスポンス。ピアニストの個性や癖を理解し、そこから好みを高い精度で推測する。そして、音と見事にコーディネートさせた。
「弾き易い」の一言で解決出来るオーダーも、実に奥が深く多様な解釈が必要だ。しかし、この要望に、宗佑はシンプルに応えることが出来た。そう、宗佑のセットアップは、実に弾き易かった。

 カーテンで仕切られた工房の片隅には、顧客から買い取った小型グランドピアノを設置した。これは、妻の美和の為に用意したのだ。かつてはピアニストを夢見た美和にとって、ピアノ演奏は幼少期から生活の一部となっており、もはや美和にとっては、生きていく上で本能に近い行動なのだ。
 公務員の美和は、規定により副業は禁止されている。なので、「お手伝い」の範疇で宗佑の仕事をサポートしていた。いつしか事務処理だけでなく、簡易な工房作業もこなせる様になっており、宗佑にとって貴重な戦力でもあった。
 美和のもう一つの「副業」が、息子、響へのピアノレッスンだ。調律師と音楽教師の息子だけあり、響はピアノの才能に溢れていた。父親譲りの音の捉え方やメカニックの動かし方、そして、母親譲りの感性と表現力。響は、幼少期より数々のコンクールで優勝し、その気になればピアニストにもなれただろう。
 ところが、響は演奏家の道を歩む気はなかった。音楽で食べていくことの困難さを、知っていたのだろう。だからといって、ピアノは生涯の趣味として続けるのかと思いきや、どうやら、それも少し違ったようだ。

「俺、調律師になりたいんだ」
 引越してから十二年後のこと。響が両親に決意を語った時、宗佑は複雑な心境だった。
 本来なら、息子が家業を継ぐことほど嬉しいことはない。しかし、調律業界は、決して楽な世界ではない。それに、宗佑自身、順風満帆に思えた経営が、その頃には衰退に転じており、策を講じないまま歯止めが効かなくなっていた。いつしか、事業存続の危機に直面していたのだ。



 大きな意気込みと計画の元、満を持して開設した松本宗佑のピアノ工房だが、調子よく稼働したのは僅か数年だった。
 そもそも、ピアノの修理なんて、一度行えば数年は同じ修理の必要がない。オーバーホールになると、早くても二十年、大抵はそれ以上のスパンに一度の頻度で行う仕事だ。
 実際のところ、それだけ長く同じピアノを使い続ける家庭は少ないだろう。多くの家庭では、ピアノの稼働期間は十年前後で、それ以降は使わずに眠っているだけなのだ。或いは、近年では業者に買い取ってもらう家庭も多い。その中で、稀に継続して使い続けている家庭があったとして、そろそろ大修復の必要が生じていると分かった時、買い換えを選択する人も多いのだ。
 当然ながら、オーバーホールはそう滅多に取れる仕事ではない上、一度行うと最低三十年は行う必要がない為、オーダーは直ぐに枯渇した。
 開業当初こそ、コンスタントに入ってきた修理の仕事も、僅か五年後に激減したのも当然の帰結だろう。元より、それほど需要がないのだ。同業者、同業他店からの外注を取るような営業活動も行っておらず、宗佑の顧客だけという絶対的な分母の小さい世界では、修理の仕事は何度も発生する筈もない。

 しかし、幸か不幸か、宗佑の仕事は修理だけではない。むしろ、平均的な調律師同様に、家庭訪問調律がメイン事業なのだ。
 一般的に、年間300台の調律需要があれば、フリーの調律師は最低限の生活は確保出来ると言われている。これは、イコール顧客数ではない。複数台のピアノを所有するユーザーもいれば、ホールや喫茶店など年に数回調律するピアノもある。逆に、数年に一度しか依頼してくれない客もいるし、何年も実施出来ないでいる顧客もいる。
 その中から、年間300台程度の実施が、最低限ギリギリの収入を得るのに必要な台数なのだ。いや、実際のところは、300台の調律を実施出来る規模、と言い換えるべきだろう。
 つまり、300台の調律の売上げだけでは全くダメだ。ただ、年間に300台程度手掛けていると、細々とした修理や紹介による販売、移動の手配、小物販売店、買い替えなど、調律から派生した売り上げも見込まれる。それらを全て含めて、300台を熟す規模が最低限のラインとなるだろう。

 また、調律業界には、調律師の人気を客観的に示す「継続率(またはリピート率)」という大切な指標がある。これは、要は今年調律したピアノを、来年も調律出来るか否かを示す割合のことだ。
 自営調律師の場合、大抵80%以上の高い数値を維持しているが、逆に言えば、顧客の新規開拓がなければ、年間二割ぐらいずつ台数が減ることになる。平たく言えば、今年十人いた客も、様々な事情で来年は二人ぐらいに断られるのだ。
 具体的な数字を提示してみよう。例えば、年間500台、継続率85%の言わば「売れっ子調律師」がいたとする。しかし、新規の依頼がないと、翌年は425台、その翌年には約360台に減っているのだ。
 更にその翌年には、自営調律師のギリギリラインである300台にまで減少する。継続率85%という高い数値を保っても、統計上は僅か三年で約40%も失うのだ。
 この非継続分(流出分)は、数年実施していない客を掘り起こすなり、新規顧客を開拓するなりして埋め合わす必要がある。毎年75台減るなら、新規を75台獲得すれば良い。逆に言えば、それが出来ない限り、稼働台数は維持出来ないシビアな世界なのだ。
 宗佑は、そんなことは深く考えに、自身の理想を追求することを最優先に、技術力だけを頼りに独立開業をしたのだった。

(次へ)



今回より、第2章『NOSTALGICな羊』です。
第2章は全6話からなりまして、合計約15,000文字と全体の中で1番短い章ですので、サクッと終わらせたいと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。