【読書エッセイ】「自分を肯定できる場所」に出合えた一冊
【今回の一冊】『悩んだときは山に行け!』
著:鈴木みき
発売:平凡社/定価:1, 320円(本体1, 200円)
概要:山で人生が変わったイラストレーターによるコミックエッセイ。不安や躊躇いを経て山登りを始めた彼女が、山で大きな喜びを得て変わっていく姿とともに、登山への愛とノウハウが目一杯詰まっている。
未知の世界にひとり踏み出す
更年期を迎え、突如としてやってきた身体の変化。心にいたっては、上下左右に大きく揺らぎ、不安定この上ない。しばらく立ち止まった後、私は歩む速度を変えた。ゆっくりゆっくりと歩き出し、そしてその速度の中で見えてきた多くのモノに魅了された。
その中でも、とりわけ「山」に魅かれていった。
早朝、朝日をバックにそびえ立つ山の輪郭。夕陽を浴びオレンジ色に染まる山々。その美しさにただ見とれた。それが始まりだったと思う。
それでも、「山に登る」という行動はなかなかできずにいた。体力のない自分には無理だと思ったし、山という未知の世界にひとりで踏み出す勇気もなかった。
そんな折、偶然目にした友人の写真。山々に囲まれ、清々しい笑顔で空を抱いている友人。それを見て私の心は揺れた。ぐわっという大きな音をたてて揺れた。山への憧れは大きく膨らんだ。
そして出合ったこの本。『悩んだときは山に行け!』
そこには、自分のことを好きになれない筆者が、山に登ることで自分自身と向き合う姿が描かれていた。その姿に自分を重ね、私は夢中になって読みふけった。
行きたい。私も行きたい。山に登り、頂上に立ち、自分の軌跡をこの目で見たい。山の神様にギャフンと言わされたい!
久しぶりの「情熱」。こんなにも心が激しく動いたのはいつぶりだろう。
前に前に、上へ上へ
2週間後、友人にガイドをお願いし、私は一歩踏み出すことを決めた。美しさにただ見とれていたあの山へ登ることを、私は決めた。
「さっ、行こうか」と言って登り始める友人。震えが止まらず、カチカチと歯を鳴らす私。その音に友人は気づいていたのだろうか? 何度もなんども私に伝えてくれる。「引き返すことも勇気だよ」と。
足を前に進める。前に前に。ゆっくりとゆっくりと進める。歩幅は小さく。自分のペースは絶対に崩さない。崩してはいけない。早ければいいというルールはなし。それが決まり事。
踏み外さぬように、一歩先を確認しながら進む。登ることに集中すると、不思議と思考は山から離れる。自分の現在、過去、そして未来のこと。友人や家族、仕事、世の中の不思議……。
何度も立ち止まり、息を整える。喉を潤す水が美味しい。学生時代の部活終わりに、蛇口から直接飲んだ水道水を思い出す。
立ち上がり、また歩き始める。前に前に。上へ上へ。
自分をそのまま受け入れられて
友人の助けを借り、ヘトヘトになりながらも無事に頂上にたどり着いた。大きな岩の上に立ち、振り返る。歩いてきた道のりが、私の瞳にうつる。ずっと続く一本道。苦しかった。つらかった。暑かった。何度も何度も立ち止まった。それでも、ここまで自分の足で歩いてきた。ここに立つまで、本当に長かった。いったい何年何カ月かかったんだ。何をぐずぐずと悩んでいたんだ。すごい。すごいぞ、自分。頑張った。本当にすごいぞ!
感動どころの話ではない。筆舌に尽くしがたい感情。太陽の光の向こうにいる神様が、確かに「よく来たね」と言っていた。
次第に笑みがこぼれ、ニヤニヤと顔が崩れていく。
少し離れた岩の上に立つ友人の輝く笑顔、刺すような太陽の熱、青を通り越した群青の空、所々に残る白い雪。
何年経っても色褪せないあの全てを、私は忘れることはないだろう。
現実を離れ、雑音からも醜態からも逃げ出し、不安定で何者でもない自分をそのまま受け入れてくれる場所。すごいぞ、自分! と肯定できる場所。
そういう場所をひとつは持っておくことは必要だ。
私にとってそれは山。その山の世界へ私の背中を押してくれたこの本は、私の大切な一冊だ。
【執筆者プロフィール】
山口花(やまぐち・はな)◆1968年、新潟県生まれ。大学卒業後、地元の広告代理店に就職し、結婚を機に退職。現在は山形県で家族と犬と猫と暮らしながら、執筆活動を行なう。『犬から聞いた素敵な話~涙あふれる14の物語』(小学館文庫)など著書多数。
初出:『PHPくらしラク~る♪』2021年3月号
※表記はすべて掲載時のものです