見出し画像

映画「ザ・メニュー」から見るクラシック音楽の現状

「ザ・メニュー」観ました。
面白かったです♪

スペイン映画
「プラットフォーム」的なジャンル?

あるいは
「9人の翻訳家 囚われたベストセラー」
とも共通したテーマ
だったかもしれません。

この映画のテーマは
クラシック音楽界の愛好家達にこそ
考えて欲しい題材だと感じました(笑)

この映画の狂気に陥った
シェフや監督は
一体何が言いたいのか?
というと
要は、
芸術の洗練さ(高み)に対して、
まず多くの人間が追い付いていない
(本当に理解して楽しんでいない)。
一部の追いついた者達は
純粋さ故に貧困で、
高級な市場から締め出され、
作品など理解しない裕福層が
わかったふりをして
自分の見栄やブランドに
芸術を利用(独占)している
(そんな現状に
下賤な商人が介入して
さらに最悪な事になっている)。

そんな[高級]と呼ばれる文化
に対しての風刺を感じました。

いずれにしろ、
形骸化してしまったミサに対して、
こういう疑問や風刺が湧いてくるのは
良い時代になったと思います
(昔の世代は、こういう
[高級の形骸化]に対して
何の疑問も持ってなかったですからね)

作中の料理人達の
ヤバイ精神状態に関しては、
スティーブン・キングの短編
「ゴーサム・カフェで昼食を」
を思い出しました。

さて、クラシック音楽
愛好者達の多くが
この映画の金持ちみたいなもの
だと私は思う。

ある種のクラシック音楽作品は、
キリスト教徒の
高い感受性(独特な世界観、空想力)

プラス
しっかりとした専門知識を持って
初めて楽しめるもの
だったりしますが、
日本は、
真面目な教育のせいで
感受性の方ががっつり欠落している人が、
専門知識だけは
しっかりと学んで聴くものだから、
ただの蘊蓄屋
になってしまうのだと思います。

南ヨーロッパの
道端のおじいさんが弾く音楽に味があるのは、
下手だとしても
[ラテンとしての音]
はしっかりと出ているからです。

本当に感性ある者にとって
芸術は[1][2][3]の場面のうち
[3]だけをしっかり洗練すれば
[1][2]はいい加減でも名作になる時がある。

[いい加減]って、
芸術にとって
とても大事な事なんです。

だけど多くの人は
感性そのものが無いので
[1][2][3]の違いなどわからない。

結果[1]も[2]も[3]も完璧に
ストイックに洗練してしまい、
妙にしかめ面をした
本質をわかってない
気取り屋金持ち達だけの世界
が生まれてしまうんですよね。

芸術には、どんな高尚の中にも
[いい加減さ]が必要なのに、
その[いい加減]の才能が無い者達は、
ただストイックな
完璧世界でしか
神を見た気になれない。

フラメンコという芸術が
ヒターノの差別や迫害や
信仰のユーモアや
田舎町の暮らしがある上で
成り立っている文化なのに、
日本に輸入されると、
途端にそれが全て削り取られ、
技術だけをストイックに洗練した
スタイリッシュで
[カッコつけたもの]になってしまう・・
という現象も同じだと思います。

それが
クラシック音楽
フランス料理
ダンス
などの世界で起きている事だと
私は感じるのです。

何が良くて何が悪いか
自分で判断して、
いい加減な部分の魅力、
洗練された部分の魅力
を楽しめる者は、
そもそも、どんな場所でも
自分にとっての
[本物]を見つけられるでしょう。

それが出来ない者達ばかりだから、
しまいには競わせて、
王冠を与えて、
権威を作って、
トップに認められた音
だけを聴いて安心する。

「ああ、これが
世界が認定した高級の音か」

と。

それがコンクールの正体でしょう。

だって、
本当にわかっている者なら、
その音楽が、
金賞だろうと
一等だろうと
「でも、その音は
私の好みじゃない」
とハッキリ言える筈ですからね(笑)

この記事が参加している募集

映画感想文

自作の詩による詩集「沼地の聖書」(ハードカバーによる分厚い豪華本を予定)を出版する為のサポートを募集しております。ぜひ、よろしくお願いします!!いただいたサポートは詩集の費用にさせていただきます。