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悪党達のキリスト教の物語について

ラテン・キリスト教は、
この世界の解決できない理不尽さ、不条理さに
私達が絶望して、修羅の道を歩まない様に
[神様が死後どこかで帳尻合わせしてくれる]
[この世の平等さを見せてくれる]

と信じる事で、
私達が楽観的に高潔に生きられる為の
[気高さの歩行器]
みたいなもの、
という一面もあるかもしれない。

しかし、キリスト
そんな歩行器が無くても、
絶望の暗闇の中、
愛(人類の気高さ)の為に一番最初に(下心、報酬なく)
十字架に架けられた訳で、
そういう意味でも私達は未熟で
キリストには適わない存在という訳です。
聖書の物語は実によく出来ています
(宗教的価値観、物語を前提とした話から
スタートしてすみませんが(笑))

神学とはその辺の深淵を
ひたすら個々で思考する事で、
人生の本質を探る哲学なのです。

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という訳で、こんにちは。
スペイン風オペラ楽団
「墓の魚」
の作曲家です。

「墓の魚」という音楽が歌っているテーマについて
今日も淡々と思う事を
語っていきたいと思います(笑)

私達は楽園の存在を信じる故
魂の尊さを信じる
(その一例が
不完全な教会という人間の作った組織です)。
しかし、キリストの行いを真に考えた時、
究極の話、
[楽園など無かったとしても、
魂の尊さを信じ、
絶望の闇の中、十字架に架けられる事が
世界を陽気に照らす本質である]

という思考になりはしないか?

それは[報酬なき気高さ]であり、
結局は、全ては無であり虚しい(VANITAS)のだから
という話でもある。

それが
[神はいないからこそ神は存在し、
希望なき絶望の道だからこそ、
私達は信仰や気高さが試され、
神の存在を認知する](GLORIA PASSIONIS)

という思考に繋がる。

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そういった哲学を歌うのが
私達「墓の魚」の作品でもある訳です。

そう考えると信仰とは
[善行をする]
という事に限った話でもないんですよね。

特にラテン(スペイン、南米)のキリスト教は、
善人=信仰という訳でもなく、
悪人(ピカロ)もキリスト教徒であったりする
(この辺は、スペイン発祥
ピカレスクという芸術の話になってきます)

あらゆる絶望の混沌の先にある
この世界の捉え方(HUMILIS et SUBLIMIS)
[己の魂との対話]
の問題をキリスト教は考えさせる。

単純なとかでは表しきれないのです。

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こういう事を考えた時、
「墓の魚」の物語
なぜ魔女なのか?
組織とは何なのか?
喪失とは何なのか?
というテーマが別の形で見えて来るかもしれません。
(これは、難しい話ではなく、
単純にスペイン的、ラテン的思考で
物事を見るという話なのです)


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