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詩の解説3[「墓の魚」作品の中の社会風刺を見ていく]

こんにちは。
「墓の魚」の作曲家です。

前回、私の作品
(詩(El Sventrament))の解説をしましたが、
↓↓
https://note.com/pezdetumba/n/n28dd00bce37d

https://note.com/pezdetumba/n/n1f93bc2a9b8c

今回はそれの第3弾で、
今回は「墓の魚」の
魔女達の物語の中にある
社会風刺について見ていきたいと思います。

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社会風刺とは、社会批判であり、
例えば、
「ワインとヒキガエルのファド」の物語に登場する
老獪な百姓娘(ガラ・ダサ)の物語は、
[教会で模範的な男として讃えられる男が
家の中では妻を虐げている]

という、
男性中心的な社会正義の中で透明化されがちな
[見落とされた救い]

指摘している作品です。

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まず、重要なのは、
「墓の魚」で繰り返し語られるのは、
[神 対 魔女]の図式ではなく、
[教会(人間社会) 対 魔女(社会の追放者)]の図式であり、
キリストは、その対立の外側の
社会に利用される事のない真理(あるいは愛)
として、別に存在しています。
それが、教会風刺と魔女を描きながら、
キリスト教的であるという
一見、矛盾した「墓の魚」作品が成り立つ理由です。

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この「墓の魚」のシニカル神学は
「悪霊グレイルメイル嬢と愉快な友人達」の中で、
少年ティオフィリスによっても語られます。


**ティオフィリス**
その教会の教えや、神学を見て、
私達はそこに人間を見つけなければいけません。
そして考える。

(中略)

考えるのです。その矛盾を。その美しさを。
そして真実を見失う。

(中略)

でも、教会には人間がいるのです。
困った事に、その中でも偉大な大司教様達は
迷う事を、とうの昔に忘れてしまった。
それが一番の問題です。
そもそも、もしも、答えがわかっているのなら、
神学にその全てが記されているのなら、
信仰などいらないのです。

でも、信仰は必要です。私達には。

考える事。
それが正しい事なのか迷い、悩む事。
すなわち、それが信仰だからです。

「◆悪霊グレイルメイル嬢と愉快な友人達」
より抜粋

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「墓の魚」作品においては
教会自体が、時として社会の象徴であり、
権威や、集団正義シンボルとして登場します。
その権威や社会正義と、対立するのは
個人主義的な魂の気高さであり、
の中でなされる
全体主義とは対極の
個人と神との一対一の対話(Gloria Passionis)こそが
「墓の魚」の世界では讃えられるのです。

それは、Gloria Passionis
(社会に理解されない、道標なき誇りの道)であり、
手探りの神との対話です。

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そして、
個人的な魂は常に、
信仰試練受難(Pasión、Passio)に晒されます。
その受難劇の中では
教会組織が、荒野の悪霊の囁きの様な
魂の気高さを惑わす[役回り]にされる事すらあるのです。

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さて、そもそも魔女ガラ・ダサには、
こんな後の物語が書かれています。

「[ボルシェビキの三年]に、夫が共産主義にハマり、
家の扉に[レーニン万歳]と書いた頭の悪さを
「政治の仕組みよりも、
夫婦の財産分与の仕組みを何とかしろよ」
と大笑いしてしまい、
結果、憤慨した夫にガラは殺されてしまう。

夫は彼女の死体を秘密裡に肥溜めに埋めたが、
知性(高潔)で穢れた者を、
糞尿(下劣)で穢れた場所に埋めた為、
悪霊が憐れんで彼女を生き返した。

「◆魔女ガラ・ダサの物語」より抜粋

ここで作者は、
共産主義社会主義そのものを批判している訳ではなく、
男性達の提唱する理想の中で
透明化されてきた
女性側の苦しみの理不尽さを表現しています。

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魔女ガラ・ダサは、
女性が学を得る事が出来ない時代に、
盗人から本を得る事で学問を学びます。
そこには、
[そもそもそういう手段を使わなければ、
知識を得る事が出来ない者達がいる・・]

という社会の現状が提示されているのです。

つまり、
社会の不完全さがそこにはあります。

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「墓の魚」における魔女の悪行とは、
社会の未熟さが生み出した社会弱者達の復讐であり、
悪(ヴィラン)達には正統性すら見え隠れします。
つまり、魔女という存在そのものが
究極の社会風刺であると言えます。

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さらに知性を持った結果、
ガラ・ダサは夫に殺されてしまい、
肥溜めに捨てられます。
その世界の理不尽さの帳尻を合わせるかの様に、
悪霊が彼女を魔女として生き返らせます。
こうなると、
[サタンもまた神の意志の下に動いている]
という神学と同じで、
悪霊の役割もまた、
世界の調整役の様に思えてきます。

ここで彼女の言う台詞が、
まさに男性社会への痛烈な批判になっています。

「女は、知性を得て、
真実を知る事で、人でなくなるのなら、

生きた家畜になるよりも、
賢者の死体の方がマシだ。

「◆魔女ガラ・ダサの物語」より抜粋

そうして彼女は、
社会的な淑女ではなく、
攻撃的な魔女になる事を
誇りを持って選択するのです。

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そして、さらに物語の社会風刺は、
やや寓意的な様相を呈しながら
辛辣な皮肉として続きます。

「しかし、彼女は膨大な知識を持っていても、
その知識を生かす事は出来ない。
社会は[死者の知識]を認めない為、
彼女の知識は永遠に彼女だけのものとなる。

「◆魔女ガラ・ダサの物語」より抜粋

ここでは、
[女性の知識][死者の知識]として無視し、
透明化する社会への批判と共に、
社会に役に立つ事だけが
価値ある物である、

という価値観を前提として作られる
全体主義的な男性社会の価値観が批判されます。
男性達の知識
社会の歯車として活用され、
その社会の中で与えられる
名誉によってのみ価値を持つ
のに対して、
魔女達自分個人の人生の為に知識を使う
個人主義者
として描かれるのです。

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この
歴史の中で
男性社会が、女性を学問から除外し
まるでそれが自然の摂理であるかの様に
振舞ってきた事に対する風刺は、
「墓の魚」で繰り返し語られます。

「墓の魚」の
「見た事のない犬」という不条理劇の中で、
突然、真理を語りだした蝉の死骸はこう語ります。


***蝉の死骸***

大学で海老を蒸すのはまた違うのです。
その意味が!!
形質が!!
海老は大学で蒸される事で初めて世界に認知されるのです。
まるで初めて人類が海老を蒸したかの様に!!
そこに所属しない荒野の女達のやる事は、
全て無かった事にされるので、
あらゆる手柄は全て大学の生徒のものになるのです。
そこには権威が味付けされます。
「◆見た事のない犬」より抜粋

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「魔女ガラ・ダサの物語」で語られる
男性社会批判の類型は、
「魔女ポリリャ・デ・クルパの物語」の中の
魔女が恋人カストロに言う台詞にも見られます。

「言ってしまえば、あんたら男は、
聖母マリアという
何だかよくわからない奴をいつも見ていて、
それをどこかの誰かに期待している。
だけど、そいつは私じゃないんだな。
私は最初からあんたらの視線の先にはいないのさ。
家族という共同体の中の可愛い娘という誰か。
理想を追い求める
自分という男について行く何処かの女を、
あんたらは愛している。
あんたみたいに本を随分と楽しそうに読んで、
よく世の中の事をこねくり回せる男も、
長い人生を生きて、
人生の甘さも苦さも味わったヒターノの男も、
なぜか、そこにいない誰かの話になると、
とんでもない馬鹿になっちまうのさ。
その途方もない誰かをここに連れてこい、と言う。
そいつがいないというのなら、
今度は、お前が生涯をかけて、
そいつを演じろと言う。

「◆魔女ポリリャ・デ・クルパの物語」より抜粋

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ここでは男性社会という舞台の上で、
男性の理想演劇の様に演じる女性が
家族として迎えられ、愛され、
その演技から降りた女性が
魔女として社会(演劇界)から追放される、
という図式が語られています。

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社会は人間達に、人生という舞台の上で、
生涯にわたり模範生を演じさせます。
そこでは人間らしさ個性が殺され、
「理想」というキャラクターが演じられるのです。
「理想」という役を演じる役者は、観客達に愛され、
正義の名の下に保護され、大切にされますが、
そこには役者の本当の素顔を受け入れられない
潔癖症の正義のひ弱さが描かれ、
その正義の作りだす社会の中で生き延びる為に、
狡賢く演じざるを得ない
役者(女性)達が描かれるのです。

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皮肉にも、この
魔女ガラ・ダサ(老獪な百姓娘)と、
魔女ポリリャ・デ・クルパ(罪悪の蛾)
「イベリアのサバト 第二書簡」という劇の中で、
社会正義の覚束なさを語っています。


**罪悪の蛾(ポリリャ・デ・クルパ)**
幼い頃からあの女を救ったのは神だったか?
カトリコだったか?
優しい村娘だったか?

呪いだったじゃないか!!
女を救うのはそれだよ。

**老獪な百姓娘**
男に女は救えないんだね。

**罪悪の蛾(ポリリャ・デ・クルパ)**
無知に知恵者が救えないようにな。

「◆第二書簡」より抜粋

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「蟬脱 desquamare」という詩の中では、
さらに強烈な言葉で
男性社会が批判されます。

「だが、猿は違う。
それだけの指を持ちながら、
瞳を持ちながら、
声を持ちながら、
地獄の溶岩で焼かれ、墨屑となろうと、
お前達は一生、その愚かな眼差しで
焦土の庭園で、己の屍を見ない。
肉体を誇り、正しさを朗読し、死を恐れ、
偽りの美徳を高らかに語る獣なのだ。

「◆
蟬脱 desquamare」より抜粋

ここでは、己の正義に酔い、
痛みに鈍感になり、
前ばかりを見ていて、
決して、自分の弱さや、過ち、
社会正義とは別の本質(真理)を振り返る事のない
軍人的な男性の気質の愚かさが
巨大な野猿に例えられ、批判されています。

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こうした[社会の中で求められる雄々しさ]の批判は、
ファシスト政権の
「狼子団(Figli di Lupa)」を批判し、風刺した
「冷たい血が心臓の周囲で反抗していた」
の歌詞でも語られています。

「少し静かに!!
小さな小さな狼達よ!!
雄雄しさを、雄雄しさだと思うな
孤独で狡猾な虫であれ
利用される犬でいる位なら
その牙で、その爪で、その魂で
匪賊は炎に焼かれ、
泣きながら土になるのだ
「◆
冷たい血が心臓の周囲で反抗していた
より抜粋

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正しさ完全性を語る社会の中にある
矛盾とも言える俗悪さ低俗さ
「墓の魚」のオペラは風刺します。

そんな社会が気まぐれに与える
栄光や、賛美や、勲章に振り回され、
不平等で理不尽に屠殺された
人間の魂や、葬られた芸術
「墓の魚」は、
鎮魂するかの様に取り上げるのです。

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人間社会そのものを風刺した
「正しい者を正しい場所に、
 相応しい者を相応しい場所に」

という短編では、
人間社会の幼稚さを皮肉りながら、
社会とは全く別の基準で遂行される
神学気高さが語られます。

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「美しい人間が死んだ。
人々は嘆き悲しみ、その者の
才能と美しさを讃え、惜しんだ。
そして「この世界にはきっと
[正しい者を正しい場所に、
相応しい者を相応しい場所に]
連れて行って下さる神がいて、
その者はきっと神に連れられて、
美しい場所に行ったのだ」と語り合った。
ところで同じ頃、
醜いとされる人間も死んでいたが、
誰にも相手にされず、その躯は道に捨て置かれた。
そこにキリストがやって来たので、
人々はキリストに
「正しい者を正しい場所に、
相応しい者を相応しい場所に連れて行って下さい」
と心の底から優しい気持ちで懇願した。
キリストは承諾して、
その美しい人間の
本質を誰にも見てもらえなかった孤独な魂と、
もう一人の醜いとされていたが、
本当は美しい人間の魂を楽園に連れて行った。
人々は美しい人間が楽園に連れて行かれた事を
心の底から喜び、神に感謝した。
だが、その者達は全員、
楽園にも、地獄へも行けなかった。
何の価値もわからず、
罪というものも、
この世の尊い本質もわからない者達は
最も価値の無い場所で生きていく事となった。
今まで通り。
これからも。
神は、正しい者を正しい場所に、
相応しい者を相応しい場所へと連れて行った。

「◆
正しい者を正しい場所に、
 相応しい者を相応しい場所に

より抜粋



いかがでしたでしょうか?
スペイン文学や、ポルトガル文学
から生まれた「墓の魚」は、
非常に南欧的社会風刺を含んだ作品を描きます。

それは個人主義の賛美であると共に、
社会批判でもあり、
資本主義の栄光が消化しきれない
芸術の有り方を探究する哲学道でもあります。

最後に、「墓の魚」の皮肉が、
わかりやすく短く表現されている作品を紹介します。

「この世で最も称賛に値しない者こそが
真実の詩を書き、
その詩を嘲笑い、踏みつけながら
私達は今日も芸術を讃え、栄光に涙するのだ。」
「◆この世で最も称賛に値しない者こそが
真実の詩を書き」より抜粋

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詩の解説の記事は、
今後もシリーズ化していこうと思っております。

少しでも興味を持っていただけたら
ぜひ、「墓の魚」を
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