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詩の解説1[腸抜き肉の事を語る]

こんにちは。
「墓の魚」の作曲家です。

今日は、私が活動している
スペイン風オペラ楽団「墓の魚」を、
実際の作品を見ながら
紹介していきたいと思います。

「墓の魚」は、
ラテンのフラメンコタンゴファド教会音楽
などを作曲し、
オペラ歌手や、道化役者達が歌う楽団ですが、
その詩も、南欧ラテン風味で独特です。

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「墓の魚」の詩El Sventramentoとは、
イタリア語で腸抜き死体
(腸を抜かれた加工肉なども指す)
の事です。

「詩とは、
この世の真理を、
人間にわかりやすい様に加工した
真理の[腸抜き死骸(El Sventrament)]
のようなものだ。

故に、詩は死んでいる。
かつては生きていたが、
今ではその命に満ちていた時分の栄光を
僅かに留める色の無い躯に過ぎない。」
「◆
El Sventrament」より抜粋

とは、この世の真実
(人間にとって都合の良い事も、悪い事も含めた)
を表現したものですが、
詩人もまた人間であり、
その真実を詩人の言葉(価値観)に束縛し、
置き換えた事により、真実は死ぬ。
すなわち、詩とは、
詩人によって打ち殺された
真実の死骸
に過ぎないと語られる訳です。

「おお、まさか!!!
腐っていつの間にか死んでいた二枚貝の空洞を見ろ!!
船乗りよ、空虚な魂の夜を見ろ!!
その闇から顔を出すのは、思想の稚拙さか?
それとも色の無い環形動物(ゴカイ)か?
お前を笑ったのは誰だ?
思想がお前を喰らい尽くし、嘲り、
この海の底に追い詰めたのか?
おお!!船乗りよ!!
知っている。
お前は、ようやく解放されたのだ。
素晴らしさから。希望から。
期待をしてしまう聖書の呪いから。
だが、海底の砂に埋もれ、
敷き詰められた無数のホンビノス貝は、
船乗りよ。
皆、今日も社会主義について考えているのだ。」
「◆マルスダレ貝の支持政党についての論文」より抜粋


El Sventramentoの多くの作品が、
ポルトガルの海を題材に作られています。

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ポルトガルの漁師達の日々の暮らし、
海で死ぬ船乗り、
その無慈悲な自然と、生きる為の漁、
海底に沈んだ人間社会の骸を
淡々と食べるムシロ貝や、海燕達を
キリスト教的厳格で無慈悲なミサの様に
詩は綴ります。

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「全てがムッソリーニの
三文芝居であろうと、世界は続く。
二枚貝達は物語の続きを上演する。」
「◆マルスダレ貝の支持政党についての論文」より抜粋

人間社会の喧騒と、醜いしがらみに対して、
全く無関係に淡々と、
海底で冷徹な死を受け入れていく
ベントス(顔の無い海底生物)達の
コントラスト(対比)が書かれるのです。

「それは腐り
(おお、なんという腐敗!!(Qué putrefacción.))
黒蠅(カリフォリナエ)やフナ虫(リギア)達が、
命の残骸の上で
その悪臭とロンドを踊っていた。
私は考える。
人生の帰路。漁師が帰るべき場所。
二度と会う事は出来ない少年時代の友人達。
命を蝕む宿痾」
「◆私は乾く」より抜粋

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海は、人間が生まれた原初の場所でありながら、
最も人間社会善悪の束縛が届かない
野放図の[誕生と殺戮の王国]でもある。
そこには偽善や、社会都合の道徳など微塵も存在しない。
故に、それらの命は
コメンダティオ・アニマエ(キリストに魂を委ねる無垢な魂)的だと
詩のテーマは語るのです。

浜辺に打ち上げられた魚の死体に集るハエ達こそが、
ムッソリーニよりも、この世界の真実を表している、と。
人間達が嫌悪し、隠す腐敗とその悪臭の一味こそが
美しい聖書的なものだ、と。

そう「墓の魚」の詩は語ります。

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そして、El Sventramentoの世界では、
ついに病気までが
戯曲の登場人物として語り出します。
己の健康を過信する者に、病気は警告します。

**病気**
「社交界に居場所を定め、
その世界に根を下ろし、
それが真実だと我が物顔で言うのか?
小猿め!
その風は気まぐれに毒を運び、
気まぐれにお前達の命を奪うだろう」
「◆第4書簡」より抜粋

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そうかと思えば、
魔女の集会で腐肉に集まったハエ達は、
政治家の象徴です。
彼らは歌い出します。

「ああ、なんと愛おしい!!
ああ、なんと甘美な!!
私達は腐肉のナショナリスト党。
躯の中に住まう政治家。
清浄を嫌い、
古きものを好む。
そして私は肉の内に、
我が救い主たる腐汁を見るであろう。
気高い思想も
潔癖な理想も
やがて死に、腐敗するさ。
それこそ我らの大好物!!
天を仰ぐ鳥より、
地に落ちた負け犬と友達になろう!!
あなた、
どうせ、私達は蠅なんだから
高潔な事を言っても駄目ですよ」
「◆第五書簡」より抜粋

彼らは、腐敗した政治家の象徴でありながら、
野生の残酷な
淘汰の真理の象徴でもあります。

キリスト教的な哲学の中では、
最低の中にも、常に高潔(神)は隠されるのです。

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「稀に短いミサ・ヴレヴィスが展開され
しかし、そういった異音の儀式も
繰り返されていく濁流の中で
通模倣であると気づく
即ち、海は死滅すらも愛し
それを対位法として内包するのだ!
見ろ!!一夜にして錆びた岩礁で
繁栄していた十字架の様な二枚貝が
死に襲われ全滅するのを!!」
「◆ポリチェイラのミサ」より抜粋

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「そこでは厳格なミサが毎夜、繰り返される
ただ単調に
奉献に始まり、
途中の暗闇の朗読(ルソン・ド・テネブレ)、
終焉のミサまで橈脚類達は歌うのだ
言葉(シナクシス)が省かれ
淡々と儀式(エウカリスティア)だけが
行われるミサは、そう
人間味の無いミサだ!!」
「◆ポリチェイラのミサ」より抜粋

人間社会の馴れ合いと、
歪められた善悪で救われなかった者達の骸が、
海で海底生物(ベンドス)達により分解され、浄化される姿を、
詩人はキリスト教的な解釈で表現します。

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「その名も無き海溝の下では、
無数の海淵達が集まり、
その悲しい人生の残骸を食べるのだ。
美しい窓辺に生まれなかった者を
その青い骸骨の知性を憐れむのだ。
ああ、惨めな生き物達よ!!
無数の哀れな貧者の魂を
聖書を読めない海淵達によって
どうか泥に帰してやってくれ」
「◆海燕」より抜粋


しかし、同じ題材の中に
キリストの声よりも人間的な、
嫉妬、恨み、憎悪の声が、
すなわち、全く別の意志を持った
主題が顔を見せる事があります。

「しかし、天使よ!!
おお!!神よ!!
罪人の泥沼を否定する霊達よ!!
それでも俺達は笑うのだ。
自分達の滑稽な人生に突き立てられた
剣の切っ先は未だに刺さったままだ。
その傷口を放ったまま、俺達は楽園を目指す。
勿論、方向は逆だ。

多くの聖者共がその安っぽい良心から、
俺達を哀れみ、忠告の言葉を繰り返す。
俺には聞こえる。その聖歌が!!
だが、お前達のその言葉は未だに空っぽのままだし、
俺達は俺達で
傷口からはどす黒い血が流れ落ち続けている。
おお!!神よ!!
そして、今の所、
ああ!!この気高き血は、乾いて止まる気配はない」
「◆沼地に打ち上げられた惨めな珪藻の様に」より抜粋


これらは悪霊の声です。
以下の詩には、
同じ[骸とベントス]という主題の中に、
全く救いとは異なる解釈と、主張が見られます。

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「だがキリストよ、見給え。
ここでは何もかもが腹ぺこで、
与えられたものは全て消化され、
お前の印も圧し折られる。

線虫、渦虫、紐虫、平虫・・・
悲しみから湧いて出たものに、
今宵、神は勝てぬ。」
「◆海燕」より抜粋


あらゆる淡々とした出来事、行いの中に、
神の浄化と、悪霊の歪さ
同時に存在し、内包されている。
これこそが「墓の魚」の語る神学です。

絶望の中に救いは存在し、
悲劇の中に喜劇が存在する。

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El Sventramentoの世界では、
暗黒の中に、救済が内在され、
逆に言えば、悪霊もまた神の僕なのです。

故に、すら「墓の魚」では、
神学的な救いとして語られます。

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「例え、お前が
かつて母から生まれたとしても、
例え、お前が
多くの者達に愛されていたとしても、
最後は一人で苦悩の骨を抱える日が
必ずやって来るだろう。
ああ!!どの道、
時間という腫瘍に誰もが殺されるのだ!!
生まれた赤子よ。
その時に知るだろう。
結局、あらゆる者が他者であったと!!」
「◆肉腫のキリエ Ⅴ 痛み」より抜粋

老いというものが細胞の死であり、
オタマジャクシの変態が
計画的な細胞死(アポトーシス)による変化である様に。
生物学的な解釈で、
もまた異物ではなく、
この自然界の循環のサイクルの中の
必然であると詩は語ります。

「そうだ。
我々は命に向かって歩くというより、
命を消費しながら十字架に向かって歩いていた。
そうだ。
お前は死ぬ為に生まれて来た。
自分の人生を自分で埋葬し、
自分の痛みを他者に知られない様に
錆びた歪な金網の様に、
屈んで歩く為に生まれて来た。」

「◆肉腫のキリエ Ⅴ 痛み」より抜粋

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それはやがて、キリスト教の
受難(パッション)の思想として作用します。
信仰とは、痛みの中、信じ抜く事であり、
祝福完全な幸福しか認めない計算された物語は、
勝者達の英雄譚に過ぎず、
歪な世界で生きる者達にとって不完全な聖書となる。
救われない苦悩こそがこの世界であり、人生であり、
それを救う神の物語は、と共に語られます。

「お前の肉体に吸い付いた
悪辣な赤いダニを愛せ!!
それがキリストの愛した式だ。
優しさと、無慈悲が愛した術式なのだ!!
命を消費しながら、
命を削りながら十字架へ向かえ。
そして、裏切り、憎しみ、殺し合い、
この世の痛みを分かち合った
他人という名の友を愛せ!!」
「◆肉腫のキリエ Ⅵ キリストの愛した式」より抜粋


それは、肉の俗世に絶対的な価値基準を置く
厭世的な社会への反逆であり、
を一つの清算と考える余剰数字の浄化です。

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「少年よ、若さを失え!!
豪傑よ、力を失え!!
喪失こそが楽園の道だ。
喪失こそが数学的な宇宙だ。
それは罰金(ムルタ)ではない。
雑費(ガスト・ディベルソ)なのだ。
痛みを受け入れよ!!
孤独な痛みを。
例え、全てが他人であり、
たった一人で歩いていく事が人生だとしても」

「◆肉腫のキリエ Ⅵ キリストの愛した式」より抜粋

我々がこの世で生きるのは、
キリストの払い残した税を払う為
すなわち、
まだ神に借りがある為であると
「墓の魚」の詩は、
生きる哲学を追求していきます。

「こればかりは、どんな貧者でも、
入場料は清算済みさ。
この世に生まれた痛みだけが
その芝居の料金故に・・」

「◆肉腫のキリエ
Ⅲ 臓物の芝居 Ópera incorporada」より抜粋

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そして、死の苦しみ病の苦しみが、
やがて、神の祝宴での再会を
祝福するものとなります。

「心許せない友よ。
いつかまた、
いつかまた、あの場所で会おう。
病も、無知も、悲しみも、喪失も、
あらゆる歪さが、
歪な私達が、
全て許され、清算された
あの十字架の下で!!」
「◆肉腫のキリエ Ⅵ キリストの愛した式」より抜粋

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いかがでしたでしょうか?
キリスト教文学というものは、
決してキリスト教徒だけが楽しむものではなく、
現代に生きる我々が、
答えの無い自分の人生の謎
社会とは別角度で再考し、
哲学者として研究していく為のもの
であると思います。

文学や、は、
娯楽芸術(商業芸術)と違って、
読者もまた研究者であり、哲学者となり
真理の解釈に挑む必要があります。

今回は「墓の魚」の作曲家の詩の中でも
神学詩を中心に紹介しましたが、
また少し毛色の異なる
異教徒の詩(魔女の詩)の紹介も、
別の機会にしていけたらと思っております。

少しでも興味を持っていただけたら
ぜひ、「墓の魚」
応援よろしくお願いいたします。

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