私の中の「わたし」/文章なんて全部嘘だから
私は最近、書き手が私である文章(ノンフィクション)と、私ではない文章(フィクション)の2つを、時間のあるときにぽちぽちと書いています。
2つの文章を書いていて、思ったことがあります。
私は、自分が書いた文章を後から読み直す時間がとても好きです。自分の文章が上手だから好きなわけではありません。
自分から生まれてきた言葉であると信じられないから、好きなのです。
私が書いた文章であることに間違いはないのですが、どうしてか、どこかの誰かにお願いして書いてもらったような気持ちになってしまうことがあります。
それは過去の私からの贈り物のように思えて、ひとつずつゆっくりと読み返すのはとてもわくわくするのです。
これは、最近私が書いたフィクションの文章の一部です。
私のなかには、3人の「私」が住んでいた。
5歳の「私」と、18歳の「私」と、性別も年齢もわからない、無名の「私」である。
5歳の私は、「どうして、ねえ、どうしてなの」と問いかけ続ける。
18歳の私が答えてあげようとする。
しかし、答えられない。考えても考えても、18歳の私には、答えを見出せない。
すると無名の私がそっと、18歳の私に囁きかける。18歳の私がはっと振り返ると、無名の私は跡形もなく消えている。私に言葉の欠片だけを残して。
18歳の私は、5歳の私に答えてみせる。私であって、私でない、しかし紛れもなく私であるあの子の言葉を使って。
5歳の私は喜び、辺りを跳ね回る。そして、次なる「どうして」を探して、また私の中を彷徨い始める。
この文章は、私ではない、18歳の女の子を書き手として書いた文章です。とはいっても、この文章は私の心の中そのものでもあるなと感じます。
ノンフィクションもフィクションも、人の手によって書かれている限り、虚構でしかないのかもしれません。
境目がどこにあるのか、自分でもわかりません。
「私」とは、非常に曖昧な存在であると感じます。
私の中には、一体何人の「私」が住んでいるのだろうかと、とても不思議です。
人は、矛盾でいっぱいの存在であると思います。みんな心の中に、たくさんの自分を抱えて生きているのだと思います。
だから私は、自分のことがわからないのだと思います。私は1人ではないからです。
「自分はこういう人です」と書いたり言ったりしなくてはならない機会が、最近多くなってきました。
人間なんて矛盾だらけな存在に決まってるのに、そんなことわかるわけないのに、と思います。
それでもどうしても誰かに自分を説明するときには、その人にいちばん見て欲しい「私」を1人選んで、説明するべきなのかもなと思いました。
もしかしたら、そんなに難しく考えるようなことでもないのかもしれません。すぐにたくさん考えちゃうのは、どうしてなのでしょうか。
5歳の私にしか、わからないのかもしれません。
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