アンドウという男

 私が安藤に初めて会ったのは、二十二歳の頃の夢の中だった。そう話すと、ほらその顔だ。夢の話だと聞くと、まるで価値がないような顔をする。夢で起こったことが現実に何も作用しないと本当に思っているのか?夢と現実はときに地続きに繋がり、作用する。安藤はそういう存在だ。
 しかし、私は彼を安藤と呼んでいるものの、名前がこの漢字で合っているかは恥ずかしながら不明だ。脳裏に漠然と安藤の文字が浮かぶが、ひょっとしたら庵堂かもしれないし、そもそも彼の名前は安藤ではなく、城木だったかもしれない。何一つ真実ではないのに、全てが真実。そういう存在が名乗った名前なので、便宜上ここではアンドウと呼ぶことにする。
 その夢で、私は実家から最寄り駅のロータリーに立っていた。車で迎えに来る親を待っていたのだ。すると目の前に流線型の美しい白のスポーツカーが停まる。ロータスのエリーゼ。スポーツカーを見てこんなにも「美しい」と感じたのは初めてだった。車に見とれていると、ウィンドウが下がり、精悍そうな男が声をかける。アンドウだ。
「俺があんたを代わりに送ることになった。さぁ、乗ってくれ」
 常識として、知らない人にそう言われたら断るべきだ。しかし彼の顔を見た瞬間、私は直感的に「彼を知っている」と思い、そして信用に足る人物であることを最初から知っていたように思い出し、何の抵抗もなく助手席に座った。
 男は誰が見ても分かるような高級スーツに身を包んでいた。上質な素材で、身体にピッタリ合っているところをみると、ひょっとしたら高級老舗テーラーのセミオーダー品かもしれない。左手首には美しい腕時計が銀色に輝いている。しかし、身につけているどれもこれもが上質な品だと分かるのに、不思議と嫌味な感じはない。分かりやすいブランドマークのついたものや、派手で豪奢なデザインではなく、シンプルでいながら他にはない個性的なマイナーブランドを好んでいるようだ。「いい趣味をしている」そう思った。
 知らない男のはずなのに、段々と彼の詳細な情報が頭に浮かんできた。彼は六本木にある金融業や不動産業を営む大きなベンチャー企業に努めている営業マンで、高いコミュニケーション能力と、人好きする振る舞いでトップの成績を常に収めている。営業プレーヤーとして活躍する一方、その企業の幹部ポジションも担っているらしく、最近では経営スキルも身につけている。そろそろ自分の会社を新たに立ち上げてもいい頃だろう。まさしく、絵に描いたような“成功者”だ。目覚ましい収入はなく、そこそこのキャリアとそこそこの暮らしの中で趣味に金を注ぎ込み、好きなように生きている私とは大違いだ。
 経験則上、私はこういう男と全く話が合わない。大抵の場合において、このような男は私のような金にならない仕事をする人間を見下すことがほとんどで、何年後にはお前の代わりなぞいくらでもいるとか、俺のような男を好むべきだとか、可愛げも面白みもないヤツだとか、そういうありきたりで浅はかな罵倒で自分のプライドを保とうとする奴がほとんどだからだ。
 しかし、駅から家までは車で十分程度にも関わらず、彼と車中で交わした会話は意外なことにこれまでしてきた誰との会話よりもスムーズで、楽しく、居心地が良かった。好きな音楽、映画、小説、漫画、アニメはもちろん、人生において重要視にしていることに至るまで、すべて話が合う。「フェリーニの『アマルコルド』のラストシーンは走馬灯のメタファーだ」という考え方まで一致しているんだから、おかしくなってしまう。
 短いのに、心を許せる親友と三時間話したのと同じくらいの充足感を得て、車は家に着いた。すっかりアンドウが気に入った私は、彼を家に招いた。彼もニヤリと笑ってそれに応じる。家に入ると、そこには中学生の頃からの友人たちが待っていた。そうか、今日はこの子たちと遊ぶんだった。私は久しぶりに会う彼女たちとの会話に盛り上がり、はしゃいだ。アンドウはその様子を後ろでじっと眺めていた。ふと、視線に気づいて振り返ると、アンドウは怒りの形相でこちらを見ていた。
「来い!」
 アンドウは私の手を強引に掴んで、外に出ようとする。アンドウが怒る理由が分からず困惑して私は聞いた。
「何を怒っている?」
「うるさい!人の気も知らないで!お前は俺と来るんだよ!」
 困ったなぁと思っていると、ふと私は尿意を催した。「どうせ外出するなら、その前にトイレに行っておきたいな」そう思うと、アンドウの手が急に離れた。アンドウはぎこちない動きでトイレのドアを開こうとしている。まるで自分の意志とは関係なく、誰かに操作されるロボットのようだった。
「なんだこれは、どうなっている!?」
 困惑したアンドウが叫ぶ。片手はトイレのドアノブに手をかけ、もう片方の手がそれを引き剥がそうとしている。
「お前がやったのか!」
「知らない、そんなこと」
 しかし、私の脳裏にまた別のことが思い浮かぶ。「今日の天気が気になるから、外に出て様子を見たい」すると、私が動く前にアンドウの身体が再び動き、なにかに引きずられるように玄関へと動いていく。私は気づいた。そうか、ここは私の夢で私の家の中だから、彼の力より私の力が強いんだ。だから、彼をコントロールできるのだ、と。全く意味のわからない話だが、何故かこのときの私の脳内ではこれが整合性に足る事実として納得できるものだったのだ。
 彼はドアに手をかけ、こちらを睨みながら叫んだ。
「どうしてだ!俺は何もかも手に入れているのに、お前だけはいつまでも自由だ!俺が欲しくてたまらないものを、お前だけが持っている!俺だってもっと自由になってもいいはずなのに!寄越せよ、お前を寄越せ!」
 彼が怒りに任せて絶叫するとき、私は彼の顔をまじまじと見つめた。背は高く、スポーツマンらしい体つきや、顎や頬の男らしい骨格で異なってはいるものの、ひとつだけはっきりしていることがあった。
あれは紛れもなく“私”の顔だったのだ。

 夢はここで終わった。あまりに印象的な夢だったので、十年以上経った今でも覚えている。ただそれだけの話で終われば良かったのだが、そうはいかなかった。
 人生におけるいくつもの選択肢は、すべての人に無数に存在するが、一見些細なその中には、時に自分の人生を誰かに預けてしまうような罠を秘めている瞬間がある。その選択は例えるならば「今日の夕飯はカレーと肉じゃが、どっちにする?」みたいな何気なさでやってくるのだ。
 夢ではなく現実での出来事で、私はある日両親と買い物に出かけた。ひとしきり欲しい物を買って荷物を運んでいるとき、母親がふと話した。
「孫が楽しみでしょうがない。私はもう、あの赤ちゃんの頭から香るミルクっぽい匂いを嗅ぐために、また子供を産むことはもう年齢的にできないから」
 私の少しうんざりした反応を、母は見逃さなかった。
「いいじゃない、母親なんだからそれくらい望んだってバチは当たらないでしょう?お願い、結婚して子供を産んでよ。相手なんてもう誰だっていいじゃない」
 有耶無耶にして流そうと思ったが、母はハッキリとした言質を取りたいのだと、嫌でもわかる態度をしている。その場しのぎでもいいから「はい」と答えようかと思ったとき、私は誰かの目線を感じた。嫌な感じがする。ふと見ると、家族と乗ってきた車の筋向かいに、あの白いロータス・エリーゼが停まっている。運転席に誰かがいる。顔は見えない。
 直感的に、ここで自分の意志に反する返答をここでしてはいけないと思った。おそらく、私がここで母の要望に反すれば母は怒るし、この後の帰り道の雰囲気は最悪になるだろう。それが目に見えていてもなお、今ここで「はい」と言うべきではない。
「そんなの、今は考えたくないよ。自由でいたいから」
 私はそう返してさっさと車に乗り込んだ。ロータスを見ると、ハンドルを握っていた手がすっと後ろに引っ込み、途端にそこにいた人影が消えたように見えた。

 その後も、白いロータス・エリーゼは私の人生の節目に現れた。特に何も無さそうなときでも現れ、私を見ているような気がする。もちろん、他の誰かの車なのかもしれないが、いずれもタイミングが良すぎるので偶然とは思いにくいのだ。
とはいえ、現実にいるかどうかも分からない彼の正体は、当たり前だが依然として不明だ。しかし、少し繋がりそうな話ならある。私には、この世に生まれずして去った妹がいる。もし、生まれていたら私の名前と対になるような名前が付けられていたらしい。もし、彼女が別の世界で男として生まれ、時折次元を超えてこちらに来ているのだとしたら、彼女(彼)が私を求めるのは想像に容易い。きっと、ここで生まれた場合の人生が欲しかったのかもしれない。世間や周りの価値観における最良の選択という価値観に関係なく、もっと自由で自分に正直でいられる人生を。

 しかし、あのロータス・エリーゼの美しさは悩ましいまである。もし、私が今よりもっとお金を稼げるようになったら、あのロータス・エリーゼが欲しい。車体の色は白よりも、深いロイヤルブルーならなお最高だ。もし、私がそれを実現したら彼はきっとまた怒るだろう。
 それなら愉快だ。私が何もかも手に入れ、そして常に自由であり続けたどうなるか見てみようじゃないか。夢と現実、対立するか飽和するか。私もそうだが、あんたもきっと楽しみにしているだろうな、アンドウ。


昔からよく見る男がいる。彼の話。
とりとめもない夢日記であり、現実に起こったことを書き留めるリアルの日記でもある。
でもあるいは、フィクションかもしれない。

2023年10月23日公開
<こちらはpixivより引っ越ししてきた作品です>

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