見出し画像

やると決めたら自分なりの意味づけで頑張るのです。

私が地元の子育てコミュニティで毎年取り組んでいる子どもたちとのキャンプで、今年は2年ぶりに実行委員長を務めることになった。

今年の3月頃に前任の青年と何度か会って言葉を交わしているうちに、今年の実行委員長を依頼されそうな雰囲気を察知した。

正直、そのときは断ろうと思っていた。なぜなら、私にとってこの数年間が自分の人生において特に重要な意味を持つ数年間になると思ったからだ。

2年前に実行委員長や運営委員という役割を一度降りたことで、私の人生の時間に大きな余白ができたことにより、自分自身について究極まで内省して自己分析を深めるとともに、自分が本当は一体何を求めているのか、何がやりたい人間なのかについて考え直し、それを一部行動に移すこともできた。

これまでこのコミュニティで取り組んできた自己成長とはまた別の新たなベクトルで自分自身を拓くことができたような感覚がして、新鮮だった。

それから約2年、この3月でようやく学位を取得して、4月からは運良く助教という立場に置かれることになったが、そんな中で再び実行委員長を務めるということは、なんだか自分自身の出身地に再び戻ってくるような、せっかく新たに前進した自分を後退させることになるような気がしてしまっていたのだ。

加えて、実行委員長という役割には、もう戻るべきではないとも思っていた。

このコミュニティのキャンプにおいて、班長や実行委員、実行委員長などの各役割は、そのときその年代くらいの人間が務めるのにちょうど良い課題が与えられるという点で、難しいながらもやりがいのある役割だ。主体的に取り組めば、何か獲得できるものが必ずある。

私としては、実行委員長の役割は大学生から若手社会人くらいの年齢の世代の青年が担うのがちょうど良い課題のように感じていた。

だから、その観点からすれば、私よりもっと若手の青年に思い切って任せてしまった方がその本人にとって大きな学びにもなるし、高い視座を手に入れた青年が増える方が青年集団として長期的に見てプラスになるだろうと思っていたのだ。

そんな中で、なぜ私は実行委員長を引き受けることにしたのだろうか。正直今でもあまりよくわかっていない。上記のような理由で、心の底からやりたいと思っていたわけではないし、「依頼されたから引き受けたのだ」と言えばそれまでだ。

しかし、私がいつも意識していることは、「やると決めたならば、自分なりの意味づけをして有意義に取り組む」ことだ。

再び実行委員長に取り組むことが決まったのならば、それが自分自身にとっての後退にならないように、何かしらの学びを得られるように主体的に取り組もうと思った。

(続く)


この記事が参加している募集

スキしてみて

ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。