思い入れが無ければ簡単に捨ててしまえるのです。
博士論文の本審査を終えて、最終提出はまだなのだが、気持ち的には一段落している。
そんな中で、この博士論文に関するこの2か月くらいの自分の取組を振り返ると、結構もがき苦しんだなぁと思う。
特に、年末年始の自分の心理状態はかなり追い込まれていた。年の瀬・正月らしいことは何一つせず、今この部屋(研究室)の部屋にほぼ寝泊まりするような生活をして、あぁでもないこうでもないと、博士論文のことについてというよりは、自分自身を否定する幻聴たちとの戦いを強いられていた。
そして、追い込まれすぎてもう無理だと思った私は、年明けの営業日初日すぐに教授の居室に赴いて、「(このまま博士論文を書かずに)退学も視野に入れている」と言う発言をしてしまった。
ここまで3年間やってきて本審査直前で博士論文を投げ出すなど、あと少し頑張って取り組めばいいのだし、普通に考えればおかしいことなのだが、それでもそのときの自分は半分本気で言っていた。
そして驚いたことに、冷静になった今でも、そうした方が良かったのではないか、と半分本気で思っているところがある。
それは、数日前も書いたように、私の中ではおそらく、博士論文に書いた内容は、自分が本気で取り組みたかったことではなかったようだ、と気づいてしまったからだ。
教授と話したときに言われた。
「今ここで辞めて単位取得退学という道を取れないこともないけれど、それで後から後悔しないの?」
それは当然の想定質問だったから、答えは考えてあった。確かに、一定の後悔は生じるだろう。
しかし、そのときの気持ちを正直に言うと、確かに後悔はするだろうけど、このままなし崩し的に博士の学位取ったとしても、それによって失うものの方が大きいような感じがしてしまっていたのだ。
それは、この学位が、本当に自分のやりたいことやこだわりをぶつけて得られた学位ではないかもしれないからだ。
これまで、どちらかというと人の依頼や社会の要請に応えるようにして自分の進む道を決めてきた自分が、自分自身の強烈な意志を持って何かを決定する、という経験を、人生の中で既にしておかなければならなかったのではないか、という気持ちがあったからだ。
また同時に、ここまで何年も続けてやってきたことを、比較的簡単に捨ててしまえるような冷たい人間性を持っている自分も内在しているのだ。
私はどうやら、人より何かに愛着を持つことが少ないようだ。
それは例えば、モノについては使えるものは残し、使わないものは簡単に断捨離できることだったり、人については、卒業生を送り出すときに寂しいと感じることがほとんどないことだったり、一度付き合った恋人と別れても全く未練を感じなくなることだったりする。
これらの例が生じるのは、おそらくそれらの対象に強い思い入れが無かったからだ。
要は、それほど私は薄情な要素を持った人間なのである。
興味が無くなったら、急激に熱が冷める。その対象と結んだ関係を、捨てる瞬間は逡巡するが、捨ててしまえば全て忘れる、喉元過ぎれば熱さを忘れるタイプの人間なのだ。
この博士論文を書けるような成果(らしきもの)を出すのにも色々と苦労はしているのだが、そこに思い入れが無ければ、簡単に捨てても良いと思えてしまう自分自身の感覚に、少しの恐怖を感じているのである。
ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。