「自分だけがやりたい研究」をやるのは苦手なのです。
自分自身について、これまで6年間研究に取り組んできてわかったことがある。
それは、「自分(だけ)がやりたい研究をやるのは苦手だ」ということだ。
普通は、大学での研究者に許された研究というのは、その研究者がやりたくて勝手にやるものだ。ある程度限度があるのは確かだが、基本的には、なぜかわからないけど、とにかく何か知りたこと、突き詰めたいことを勝手に選定して、それについて自分の裁量で勝手に進めていくものだ。
しかし、私はその感覚で研究に取り組めなかったし、その感覚は自分にとっての推進力にならなかった。自分の欲求を満たすための研究テーマの設定ができなかったし、肌に合わないような気がしたのだ。
では、それ以外の側面として、「誰かのためになる研究」であったらどうか?その研究に取り組んで成果が出せたら誰かが助かるのであれば、取り組むモチベーションは上がるか?
この場合、私にとっては、ただ自分のやりたいことをやるよりはマシかもしれないが、それでもドライブするような推進力は得られないだろうと思う。単に人のためになる研究を自分がやりたくてやる、でもあまり充実感が無いのだ。
では、それ以外にどんな側面を持つ研究があり得るだろうか?
敢えて研究というのを抜きにして考えれば、私の感覚ではどうやら、自分を含む仲間集団がいて、その集団が達成したいある目的があって、それに自分も共感できている状態であれば、そのために必要なことをどんどん発案して推進力を持ってできるかもしれない、と思った。
そうでなければ、単純に誰かにお願いされたこととか、困っている人が自分を頼ってきたこととか。このとき相手に抱く感情は、自分に近い関係性であるかどうかに関わらず、純粋に、困っているなら助けてあげたい、という気持ちだ。彼らの困りごとが、自分にとっても共感できたり、解決することに意義がありそうだ、その人の幸福に繋がりそうだ、ということを実感できるなら、喜んで頭と体を貸すだろう、と思った。
ただ、今純粋にそういうことに推進力が持てていないのは、おそらく、自分の「本業」がおろそかになっている感覚があるからだ。自分がやるべきことをきちんとやっている前提が無いと、自分にとってのやりたいことである「人にお願いされたことに力を発揮すること」を自分に対して許せないのである。
ここまで考えて、冒頭の「自分やりたい研究をやる」のが苦手な原因もわかってきた。
もし、今まで学生の立場で本業としていた(しなければならなかった)、この「自分(だけ)がやりたい研究」の存在が無ければ、私はもっと自分が持てる才能を使って活き活きと人生を生きていけるのではないか、と思うのである。
研究者として生きている人間のうち、このような結論に至る人間はもしかしたら少ないかもしれない。世の研究者たちはきっと、自分がやりたい研究をやる、という欲求がその行動原理になっているのだろうと想像するからだ。
そして、私もそういう生き方に憧れる。自分の狂気的な欲望を自覚して、それを突き詰めながら生きる生き方がカッコいいと思う。
しかし、そういうスタンスの生き方に自分自身は向いていないと思った、というのがこの6年間の私の到達だ。
私のような感覚に共感してくれる人はどこかにいるのかな?
この記事が参加している募集
ちょっと応援したいな、と思ってくださったそこのあなた。その気持ちを私に届けてくれませんか。応援メッセージを、コメントかサポートにぜひよろしくお願いします。 これからも、より精神的に豊かで幸福感のある社会の一助になれるように挑戦していきます。