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書くことは、森で木を拾うことと似ている


私は作中のある言葉が深く心に響いて、その言葉に勇気づけられ、生命の存在そのものを力強く肯定してもらったような気持ちになりました。(あすままさんの「小説ジミーを読んで癒されたこと」から)

勇気付けられたという「ジミー」作中の「ある言葉」は、「あれだろう」とすぐに思った。

そこが印象に残ったという感想が多いし、その場面で泣いたという声もたくさん聞いた。

あすままさんは、その「ある言葉」を「何度も噛み締めては自分を奮い立たせるお守りになる…そんな言葉の贈り物」のように感じたという。

彼女が「ジミー」を読んでくれて本当によかった、と私は思う。

小説だってこんな文章だって、「誰かを癒そう」と思って書いてる訳ではない。けれど、私の文章で「癒された」と言う人たちがいる。

「エイミーさんが綴るnoteの言葉の数々に、私は癒されたと感じています。
それは、そこにある思いが自分の中にもあったと感じるから。(あすままさん)

不思議なことだと思う。私は、特定の読者を想定してないし、誰かを癒す処方箋なんて持ってない。

結果としてそうなるのは嬉しいけれど。そんな風には、できないのだ。


私にとって、文章を書くとは、森に入り木の枝を拾い集めているようなものだ。地面に目をやり、半ばぼんやりしながら屈み枝を手に取る。

一つ一つの枝のことは、よく分からない。ただ拾うだけ。頭ではなく、身体的な作業だと思う。

「自分の思いが、エイミーさんの言葉を借りて解き放たれる気がして。
そうすることで、ただここにいる自分を許せるようになる… そうやって、エイミーさんの紡ぐ言葉に癒されている自分がいます」(あすままさん)


木の枝を拾うことは、祈りに似ていると思う。

私の文章で癒される人がいるならば、その人は、読むことを通して、私と同じことをしてるのかもしれない。

私は、森の中に入るのだけれど、それは、木を拾うという「行為」のためなのだ。


書くことは、祈ることと似てる


<終わり>


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自分の思いが、エイミーさんの言葉を借りて解き放たれる気がして。
そうすることで、ただここにいる自分を許せるようになる…そうやって、エイミーさんの紡ぐ言葉に癒されている自分がいます。

「ジミー」を読んで癒された、というあすままさんの記事です↓


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