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【紫陽花と太陽・下】第十話 指輪[3/3]

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「僕、あずささんと結婚したいと思っています」

 珈琲のカップに口を付けた瞬間だった。いい香りだなと思った瞬間に、遼介りょうすけから突然告げられ、珈琲の感想などどこかに吹っ飛んでしまった。まじまじと遼介を見た。

「さっきアクセサリー屋さんに行ったのは、本当は婚約指輪を贈ろうと思ってました」
(……コンヤク、指輪?)
「でも、婚約指輪でなくて、結婚指輪を二人で買うのでもいいと思いました」

 遼介が何か宣言する時は、たいていですます調になることは知っていた。初めて告白してくれた時も、丁寧に気持ちを伝えてくれた。きっと、何度も何度も頭の中で考えてくれた言葉を、一生懸命伝えようとしてくれているからだと思う。

 遼介が言い終わって、ふぅと息をついた。強張っていた肩がストンと下がった気がした。ついでにおでこから飛び出ている一房の毛が、急にぴょんと真上を向いた気がした。

「もちろん今すぐは難しいと思う。僕は一八歳になって成人の年齢になるけど、あずささんが一八になるのは来年の二月だからね。二人とも成人になってから籍を入れれたらなと考えているんだけど……」
「籍」
「うん」
「あまり、結婚をするということは考えていなかった」
「……う」
 私の返事に、遼介の顔がさっと青ざめてしまった。うまく伝わっていないと思って言葉を続ける。
「あぁ、言葉が少ないな。私の身の回りで結婚の話はまるで出ていないので、結婚するかどうかについて、そもそも考えたことがなかった、という意味だ」
「……そ、そうだよね」

「でも遼介は、今私に結婚の話をしてくれた。突然のことでかなり驚いてはいるが、考えてみようと思う」
 私の言葉に遼介は少し安堵の顔をした。

「確かに、成人してすぐに籍を入れるのは僕も身近で聞いたことがない。桐華とうか姉がひろまささんと結婚した歳も、確か二十歳後半だった気がするから。ひろまささんは姉より年上だから、三十歳は越えていたと思うし」
 私は大きく頷いた。
「あずささんはこれから大学へ進学するし、それから就職もすると思う。それを待ってからでもいいかなって思ったこともあるし、でも、結婚できる歳になったのならすぐしてもいいのかなって思う自分も、いる。
 ……昔、まだ中学生くらいだった頃、未来のことをあれこれと考えてはいたよ」
「中学生は昔なのか。たった三、四年前くらいだぞ」
「あれ? 三、四年前なのか。言われてみたらそうだよね。僕の中でははるか昔のことのように感じるんだ」
「うん」
「次に父さんと食べる年越し蕎麦は、どんな蕎麦にしてみようかとか」
「うん」
「年明けの家族旅行はどこに行くんだろう、とか。その次もあずささんと皆で旅行に行けたら良いなぁ、とか」
「うん」

「でもどれも無理だった」

 最後の遼介の声が胸にズシリと響いた。抑揚のない声だった。

「その時思い描いていた未来は、全部変わっちゃった。考えてたことが全部パァになってしまったから、考えても意味がないと思って、だったら考えることすらしないほうがいいのかなって思った時期があった。
 それでも、今、目の前のことだけに対処していたんじゃ、姉を説得することはできなかった。バイトを始める時や退学の時、就職を決める時にだめだった。先を見ろって言われた。やりたい、やろう、そしたらやった後の毎日の生活スタイルがどういうふうに変わるのか、やっぱり考えないといけない」

 遼介は、ある時から考え込む時間が増えた。それは隣にいたから私もよく知っている。桐華さんたちとぶつかった時も、確か梨枝りえさんに『実際に働いたらどんな風に生活が変わるのか、想像してから行動してほしい』と言われていたように思う。

「考えても意味がないのかもしれないって思いながら、それでも考えた。あずささんとお付き合いできるようになってからも、怖かったけど、先のことを考えながら毎日暮らしていた」
「怖かった、のか?」
「それは、まぁ。あずささんが僕を選んでくれたことがすごく嬉しくて、幸せだったから、それがもし壊れてしまったらと思うと怖かった。勝手に怖がってた。
 ……いや、そんな顔をしなくてもいいからね。勝手に一人で思ってたことだから」

 遼介が珈琲を一口啜った。

「いろいろ考えた未来があった。分かったのは、僕が考えるどの未来にも、あずささんが隣りにいることだった」
「……私が」
「あずささんが隣にいてくれるから、僕は辛いことがあっても立ち直れた。感謝してもしきれない。どうやって感謝を返したらいいのかも分からない」
「私だって、遼介には感謝の念しかない」
 私がきっぱりと言い切ると、遼介は目を瞠った。

 少し、沈黙が続いた。

「……私が、この先も隣にいていいのか?」

 声が震えてしまった。無我夢中で勉強をして、進学しなくてはと思っていた。今勉強できるのは、隣で一生懸命働いている遼介がいるからだ。いつか彼が高卒認定試験を受けたいと思った時に私が勉強を教えられるように。……でもその後に恐ろしい出来事があった。そんな未来が来るのかは恐ろしくて深く考えることができなかった。

「そうか……私も、怖かったのだ」
 遼介が私を静かに見つめていた。彼の握りこぶしが若干震えているように見えた。

「あずささん」
 遼介の目が私を射抜く。
「僕は、結婚したいと思っています」

「どうしたら結婚することができるのか?」
「……具体的には、書類を出せば」
「書類」
「婚姻届。市役所で自由に手に入る」
「……遼介のことだから、もう下書きくらい、してそうだな」
 私がそう言うと、遼介が驚いた顔になって、小さく頷いた。頬が少し赤い。

 二度、彼は『結婚したいと思っている』と言った。
 してほしい、とは言わないところが彼らしいと思う。お願いされたら私はおそらく断れない。だから彼はいつも私に選ばせてくれるのだ。私の『気持ち』は『自由に』選んでも良いのだと。

 そう言えば、高校三年生になって進路の話になった際、久しぶりに家族全員で晩ごはんをとった日に、寮暮らしの話題が出たことを思い出した。

(大学はちょっと遠いのね……。確かに学生寮もあるみたいね。いきなり何もかも初めてのことばかりよりは、食事とかセキュリティのサポートがあった方が気持ち的にも少し楽かもね……)

 桐華さんが進学を希望する大学のパンフレット資料一式を眺め、呟いた。ひろまささんは寮生活のメリット、デメリットも分かりやすく説明してくださり、遼介はみんなに食後のほうじ茶を注ぎながら、静かに何も言わなかった。
 自室に戻ってから彼に問えば、答えはいつもと同じ。
 選ぶのは、私自身。
 大学進学を機に、翠我すいが家から離れるのかどうか。
 離れたところで関係が絶たれるわけではないことは知っている。困った時は相談してもいいし、これからも遼介とは時間を調整して会うことだって、可能だ。

 ……何より。これ以上、遼介や彼のご家族に迷惑をかけたくない。

 ……でも。遼介と離れることは、心の距離も離れていきそうで、怖い。

 出会ってからたった数年。されど数年。
 少しずつ自分にできることは増えてきている。
 今こそ、居候をやめて一人暮らしをする絶好の機会とも思えるにも関わらず、私はまだどうするかを決めかねている……。


「……あずささん、ごめん、困らせて」
 ハッと意識を戻して遼介を見ると、ものすごく困った顔をしていた。

(困ってはいない。私とて、遼介と一緒にいたいと願っているのだから嬉しい、それは確かだ)
 店内の穏やかなBGMとは正反対に、私の心臓はやや早く鼓動している。何かを迷っている。それが何か、情報を整理しないとならない。
 思考を切り替え、今自分の中の懸念事項をざーっと脳内で箇条書きにした。答えが出たもの、出ないものを分類し、時間がかかりそうなものをいくつかピックアップしたところで思い出した。
 遼介に、返事をし忘れている……。

「今、考えているところだ」
「あ、はい」

 それだけで待ってくれる彼に甘えてしまう。
 どれほど時間が経ったのかは分からないが、あらかた考えがまとまり、私は一つ息をついた。

「遼介」
「はぁ」
「まず、指輪云々の前に、遼介の気持ちを伝えてくれて良かった。それと、すごく嬉しかった。それを、まず伝えておかねばならない」

 言葉に出しながら私は泣きそうになった。もっと普通の女性のように話せないことがこれほど苦しいと感じたことはなかった。それでも遼介はいつも通り微笑みながら聞いてくれている。有り難かった。

「うまく……言えなくて、すまない。その、今考えた中で思ったことを、ひとつ聞いてもいいだろうか?」
「うん。何だろう」

 優しい遼介に、どうして「今」結婚しようと思ったのかを問うてみた。
 私の進学や就職を待ってからでも遅くないのでは? と思ったのだ。

「えっと、笑わない?」
 遼介は少し苦笑いして言った。
「何をだ? 言ってくれないと分からない」
「理由は、二つある。一つは、記念日をたくさんしたいなぁって思ったから」
「記念日?」
「うん……。結婚記念日。早く結婚したら、歳を取るまでにそれだけたくさんお祝いができると思って」

 私はポカンと口を開けてしまった。そういう発想はなかった。
「まぁ、確かに誕生日のように毎年お祝いをすると思えば、そうなるな……」
「あずささん、今絶対、変な理由だなって思ったでしょ」
「いいや、別に」
「そうかな。……二つ目は、その、僕だけの話になるんだけど」
「何だ」
「『夫』として堂々とあずささんの卒業式にお祝いに行きたいと思ったんだ。家族のようで家族ではない、かといって口先だけの恋人という微妙な立場でもなくて」

 そう、遼介は頭をかき、俯きながら言った。
 私の卒業式に、参加したい。
 記念日を祝いたいという発想も思いつかなかったが、二つ目の理由にも相当驚いてしまった。式典に保護者が参列するという風習は中学校の卒業式でも見ていたから知っていた。私達のそれには、結局誰も——彼の父親の看病があって——参列できなかったが。

(遼介の願いがそうならば)

「……ただ、普通は親が出席するものなんだけどね。両親がいない場合なら、夫なら出席できるかなって思っただけで……」
「それは、学校側に確認することになるな」
「そうだね。……って、か、確認するの⁉︎」

 私の気持ちの天秤は傾いた。
 揺らぐものは、何も、ない。

「しないのか?」
「えっと、その、まだ返事が……」

 昔、私には親の思う通りの道が用意されていた。最初は家の跡継ぎのため男として茶道を叩き込まれた。義兄が養子に来てからは、使用人の立場に変わり食事や掃除をしていた。ごくたまに会う母からは、世継ぎの子を産むために必要な知識を教えてもらった。いずれは誰か親の決めた相手と結婚し、子を成すのだと思っていた。それしか道は用意されていなかった。
 両親が亡くなり私は自由になった。かと思えば、義兄の思うように生かされた。

 遼介と一緒に暮らし始めてから分かったことだ。
 私は、縛られていたのだ。気持ちと行動を。

 太陽のような遼介は私を照らした。一枚ずつ気持ちを覆っていた蓋がはずれていった。
 何枚も何枚もはずれて、泣くことも、笑うことも、悲しいことも、怒る……ことはあまりないのだが、そういういろんな感情を持っても良いと知った。表に出しても良いと知った。

 遼介に愛されていることは知っている。言葉でも身体でも、本当に遼介は私を優しく大切に扱ってくれるのだ。


 しばらくして遼介が静かに言った。
「……急ぐ必要はないから。ただ、僕の気持ちを知ってほしかった。結婚しても、しないで今のままでも、一緒に暮らしても、寮に入っても、僕が、大学生や社会人になるあずささんを支え続けるのは、変わらない」

 大きく頷いて、私はガタリと音を立てて椅子から立ち上がった。
 遼介が見上げた。いつも私のほうが彼を見上げているので、見下ろすのは不思議な感じがした。

「分かった」
「……な、何が」
「寮には入らない。遼介のそばにいる」
「……え。……え?」
「それと、指輪を買おう」

 遼介が目を瞠った。ポカンと口を大きく開けて何とも間抜けな顔になってしまっている。

「えっ⁉︎ 今⁉︎」
「うん。今、これから」

 さっきのお店に行こう、と私はお会計をしにレジへと向かい……しようとして慌てて戻ってきた。
 大事なことを伝えていなかったからだ。
 まだ椅子に座っている遼介の両手を取り、優しく包み込んだ。
 心なしか自分の心臓がバクバクなっている気がする。
 十七年の我が人生の、どの試験よりも緊張している。

「返事をしていなかったので、言う。
 私は遼介が好きだ。
 結婚の時期が早いか遅いかは気にしていない。
 一緒にいたい、それが全てだ。
 遼介となら、私が本当は望んでいた家庭を築き上げられると思っている。
 ……だから遼介。
 ……私を、翠我あずさ、にしてほしい」

 一気にたくさんしゃべったので息が切れた。ハァハァと息をつき、ふと遼介を見ると、両目から涙がこぼれていた。

「また、泣かせてしまったか……?」
「……また……泣いちゃった……」

 デパートの高級カフェで泣いている遼介と、その目の前で突っ立っている自分。
 近くを通った店員さんが、不思議そうに私たちを見ながら立ち去った。



(つづく)


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【あとがきではないあとがき】
こんなプロポーズがあるのか、と笑ってくだされば幸いです。
まっすぐな遼介と、勇ましいあずさ。
彼らはいろいろ悩んだ末にこのような方法を取りましたが、私自身は、結婚が正解とは思いません。ゴールでもないです。

今一般的に言われている婚姻についても長い歴史があるわけでもなく、男性女性に求められることの多さにいろいろ驚きます。
上巻のあとがきでも触れましたが、古い家制度の話を小さい時から聞かされてきたので、当たり前って何だろう…?と思いながら、生きてきました。

いろんな生き方があって、自由で、それでいいのだと思っています。

大事なのは、大切にしたい相手に寄り添っているかどうか、でしょうか…。
それと人に迷惑をかけないかどうか、も。

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