【紫陽花と太陽・下】第十一話 お願い[1/2]
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年が明けて一月下旬。年末年始も帰省していた梨枝姉と一緒に過ごしたものの、話すタイミングをのがしたので今頃になってしまった。梨枝姉は今、一人暮らしをして遠くに住んでいる。仕事先で異動があって自宅から通勤するには遠くなってしまったからだ。
僕はあずささんと梨枝姉と一緒に、最寄り駅近くの蕎麦屋で蕎麦を啜っていた。
「年越し蕎麦もそうだったけど、二人とも本当に天ぷら蕎麦が好きなのねぇ」
ゆったりと梨枝姉が言った。
父の生前、究極の年越し蕎麦を二人で協力して作ってからというもの、蕎麦屋に入るたびに僕たちはついこの蕎麦を頼んでしまう。
「同じ天ぷら蕎麦って言っても、店によってだいぶ違うからね」
「衣の食感や、付き具合も違うな」
「そう、海老以外の天ぷらの種類も全然違うし、けっこう面白いよ」
僕とあずささんが口々に感想を言うと、そうなの、と梨枝姉が笑った。
三人が食べ終わったところで、麺と具のない器を乗せた盆をテーブルの端に寄せた。僕はリュックサックからウェットティッシュを取り出して、テーブルの上をざっと拭いた。
「あんた、何もそこまでしなくても。……潔癖症?」
「いやちがう」
「つゆがこぼれていたからな……」
「汚れてほしくなかったから拭いたんだよ」
梨枝姉がキョトンとした。
リュックサックをもう一度開き、紙を取り出して姉に見せた。
「これって……」
梨枝姉が紙を見て、そして僕たちの顔を見て、絶句した。
僕は微笑んで言った。
「そういうこと」
見せた紙は「婚姻届」だった。
僕とあずささんは、今日梨枝姉に結婚の予定があると報告するために呼んだ。
許可ではない、報告だ。
十八歳で成人になれば、二人だけでも届け出を提出すれば結婚することはできるのだ。
「結……婚……。しようとしているの」
ポツリと梨枝姉が呟いた。
「うん。ちなみに、ひろまささんにはもう伝えた」
「桐華さんには?」
「まだ。この後縁田さんに言って、それからだから、一番最後」
そう言うと、梨枝姉はぶっと吹き出した。
「すごい、まるでラスボスみたいな扱いね」
「ラスボスって、ゲームの最後の強いやつみたいなの?」
「えぇ、そう。作戦をいろいろ立てないと、勝てないような」
確かに作戦は必要だ。だからこそ、僕は順番に一人ずつ話をすることにしたのだ。
「婚姻届って私は出したことがないのだけれど、ここの証人が必要なのよね?」
「そうだね。成人している二名がここに書けばいいってさ」
「あら、調べたのね。そりゃそうよね、用紙もちゃんとここにあるもの」
「これは下書きだけどね」
梨枝姉はゆっくり丁寧に届け出を眺めた後、さらりと言った。
「結婚、おめでとう」
僕は不思議に思って尋ねてみた。
「反対しないの?」
「反対?」
「うん。絶対早すぎるって、もっと遅くたっていいんじゃないかって、言うと思ってた」
「だって、二人で考えて納得して、それで私に話をしているんでしょう?」
「そうだね」
「だったら、反対する理由はないんじゃないかしら」
僕は目を丸くした。
「じゃあ、桐華姉もそう言ってくれるかな」
僕の言葉に、梨枝姉はあごに手を当ててうーんと唸った。
「反対はする……それか、渋ると思う」
やっぱり。桐華姉は自分と同じ進路を辿らない僕が気に入らないのだ。高校を退学して仕事に就くと話した時、僕と姉は激しく衝突した。お互いの『普通』が全く違ったために意見の食い違いが露呈したのだ。今までお互い言わなかった心の奥深くの考えが、全然違っていたことがよく分かった。
「私は反対しないし、ひろまささんもしなかったんでしょう? そしたら、私とひろまささんが証人になって今ここに書けば、すぐに提出できるんじゃない?」
「提出は二人とも成人になってからと思っているから、二月を予定しているよ」
「そうなの」
「あずささんが未成年の今は、あずささんの親の同意書が必要だ。親がどちらも死亡している場合は未成年後見人の同意が代わりになるんだけど……」
僕は一旦咳払いをして、続けた。
「それには義理の兄に会わないといけないだろうし、僕は正直なところそれは避けたい。だからあと少しだけ待ってから、提出しようと思っているよ」
隣にいるあずささんを見るとこくりと頷いてくれた。
「証人の欄に書いてくれるって言ってくれて、ありがとう」
「どういたしまして? 結局、誰にお願いするつもりなの?」
「桐華姉とひろまささん。もしくは桐華姉と縁田さんかな」
「桐華さんなのね」
「うん。勝手に進めても問題はないんだけど、事後報告じゃなくて、きちんと桐華姉も納得した状態で進めたくて。これからも生活は続いていくんだから」
僕がそう言うと、梨枝姉は口の端を持ち上げて、微笑んだ。
◇
目の前の弟から、結婚の報告をされるとは夢にも思わなかった。
だいたい、いつお付き合いをしていたのだろうか。それをすっとばして結婚に至ったのだろうか。私は全く気が付かなかった。
ただ、仲がすごく良いのはよく知っていた。中学二年生頃からずっと一緒にいるのだ。家のことも椿のことも、あずさちゃんは本当にありがたいほど手伝ってくれている。遼介と一緒に台所に立っている時も、二人の手際の良さがすごくていつも感心していた。阿吽の呼吸とでも言うのだろう。必要最低限の言葉で、どんどんと食事の支度が整えられていく。父の葬儀の時も、弟が退学する云々の時も、どんな時もあずさちゃんは弟を支えていてくれた。遼介があずさちゃんを選ぶのも大いに頷ける。
「桐華さんに反対されるかもしれないって思って、ひろまささんと私と、順番に相談していっているのね?」
「そうそう。前に梨枝姉が言ってたし。根回しした方がいいよって」
「言ったかしら」
「僕は正直で、真面目なんだって。ただ、それだけじゃちょっと力不足かなと思って、外堀を埋めていこうと思ったんだよね」
「ずる賢くなったわね」
「穏便に結婚できるように布石を敷いていると言ってほしいな」
遼介が微笑みながら言うと、隣であずさちゃんが吹き出した。遼介が少し顔を赤くして、目線だけあずさちゃんの方を向いて言った。
「今のは使い方は合ってますか? あずさ先生」
「あぁ、合っていると思う」
くすくすとあずさちゃんが笑って言った。
「良かった。先生のご指導の賜物です」
そう言って、お互いくすくす笑っていた。
私は驚いた。遼介の成長に。そしてあずさちゃんがこんなにも笑っていることに。
一時期塞ぎ込んでいた彼女とはまるで別人だ。
ここまで立ち直ることができたのは、やはり遼介のおかげなのだろう。
私が仕事の都合でどうしても家を離れなくてはならなかった時、内心ではとても心配だった。何も今年異動にならなくてもいいのに、とも思っていた。帰省して会うたびにあずさちゃんは笑顔が増えてきた。ある時から声を出して笑うこともあって、本当に驚いたのを覚えている。
この先も二人で支え合っていけると確信できる。この二人なら反対する理由など何もない。
「入籍が無事終わったら報告してちょうだい。待ってるから」
私が言うと、遼介とあずさちゃんが同じように同じタイミングで、目を瞠った。
◇
二人で店に行き、縁田さんにも結婚のことを話した。
「いいじゃん」
それで終わった。すごく早くて拍子抜けした。僕が呆然としていると、次の言葉は、
「孫が生まれたら教えてくれよ」
だった。勘弁してほしい。
一応入籍予定は二月だということを伝えると、あずささんの誕生日の話になり、好きなものは何か、ほしいものは何か、僕のどこに惹かれたのかなどと次々にインタビューが始まって、閉口した。
どうやら喫茶店を始めるずっとずっと昔に、記者の仕事に就いていた時期があったらしい。縁田さんのマシンガントークはその時鍛えられたのかと思ってしまった。縁田さんの経歴は謎めいている。
さて。次はラスボスだ。桐華姉に話をしなくては……。
* * *
指輪の話に戻る。
僕の何のひねりもない直球なプロポーズの言葉に対して、あずささんからの勇ましい返事をもらった後、僕たちはデパートのアクセサリー屋さんで指輪を買った。買ったのは婚約指輪ではなく、結局結婚指輪にした。
指にいろんなサイズがあるということを初めて知った。指輪を付ける場所によって意味合いが変わるということも初めて知った。
「これが、私は、一番好きだ……」
長らく自分の希望が分からなかったあずささんが、指輪を選んだ。僕はもうそれだけで涙腺が崩壊しそうだった。デザインや値段なんてどうでも良かった。彼女が選んだ指輪がほしかった。
彼女の選んだ指輪は、ただの丸い輪っかとは違って少しウェーブになっていた。輪の途中にハートマークの片方が掘られていて、二個のリングを合わせるとハートが完成するという、へぇ、とか、ほぉ、とか思わず口から出てくるようなデザインだった。色はプラチナ。遠目からはすごくシンプルな指輪だ。
「とても素敵だが……高いな」
値段で妥協しないでほしかったので、選んでくれた指輪をすぐにレジに持って行ってお会計をした。ほしいと思った指輪がどれくらいするのか分からなかったので、茶封筒に直近三ヶ月くらいの給料をまとめてもってきたのだけど、お会計の時にあずささんがその封筒を見て、呟いた。
「いつまでも茶封筒に現金のまま貯金していくわけにはいかないな……」
「確かに、銀行に預けたいね。封筒がパンパンで出しにくい」
「この指輪代は折半するからな。後でレシートを見せてくれ」
「えっ? 僕が払う予定だったけど?」
「どうしてだ」
「どうしてって……そういうものかと」
「二人の指輪なのだから、二人できちんと買いたい……。それはだめだろうか……?」
あずささんが大きな瞳で遠慮がちに僕を見つめてきた。うっ、その目はずるいだろう……働いているのは僕だから、僕が出す、くらいの気持ちだったのに。あずささんのお小遣いはずっと貯金をくずしている。ご両親の遺産から。それがどのくらいの額なのかは話をしたことがないからさっぱり分からないけど、結婚することになったらそういう話もするようになるのかな。
「わ、分かりました……」
火照った顔で呟く僕とあずささんを見て、店員さんが優しく微笑んだ。
ちなみに、アクセサリー屋さんの後にまっすぐ本屋に寄り、「新婚夫婦のための家計の教科書」などという本を買ったのは言うまでもない……。
(つづく)
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