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【短編小説】ラム香るホットミルク

 やけに明るい夜だった。
 私は閉められたカーテンの隙間から伸びた一筋の線を不思議に思い、無意識に手を伸ばした。小さな手のひらに線が映り込み、明と暗、二色の手に変化した。

「……あかり?」

 私は手のひらと、窓とを交互に見た。

「どうしました? ひな

 遠くの方から私を呼ぶ声が聞こえた。振り向くと私の大好きな人間の男性、こころ先生だった。というか、この家には私と心先生しかいないので、まぁ彼しかいないわけだけれども。

「夜なのに明るいなぁって思って」
「明るい? ……あぁ、月明かりですか」
「月明かり!」
 先生は何てことないように言って、カーテンを今より少し広く開けた。すぐに私の手のひらから暗が消えた。

 今日はまんまるの月だった。先生がこういう月のことを『満月』だと教えてくれた。


 ここは森の奥の病院で、奥野心おくのこころ先生は心のお医者さんをしている。診療所兼自宅の建物なのでたいていはこの中で暮らしている。いつもとても静かだ。耳を澄ますと秋の虫たちの軽やかな鈴の音がオーケストラを奏でているのが聴こえてくる。
 私たちはもう寝るところだった。
 オフホワイトのパジャマを着た先生が、いつもここから窓を見るためのロッキングチェアにゆったりと座った。

 ゆらゆらと前後に少しだけ身体を揺らしながら二人で空を眺める。その心地良い揺れに、私はいつも眠りに誘われるのだけど……。

「満月、という名前があるなんて知りませんでした。でも昔、何度も見てましたよ」
「そうなんですね。丸い月は満月、半分ほどが明るいものは半月、それに真っ暗な新月という名前も、人間は付けて呼んでいたりしますね」
「ふぅん」
「僕と雛が出会う前も、今も、月は変わらずそこにありました。月は何を見て何を思ってきたのでしょうかね……」

 出会う前、どこか別の場所で。
 心先生は一人で、私は家族や友達と、月を見ていた。

 それからいろんな出来事が重なって、今私と先生は一緒に揺られながら月を見ている。

 リンリンリン……、ルルルル……、チンチロリン……。
 鳴き声が違うので、それだけいろんな虫たちが虫生を堪能しているんだろう。
 穏やかに脈打つ先生の手首に安心しながら、私は過去を回想する。
 自分にまだ背中の羽が生えていた頃。何不自由なく空を飛び回っていた頃。四枚の羽を存分に羽ばたかせ、花のあっちこっちを渡って大好きな蜜を嗜んでいた……昔。

 今の私は、先生ではない「人間」から逃げる途中で羽を怪我して千切れてしまった一匹の飛べない妖精シルフだ。先生に保護された後、飛べないので彼の肩や胸ポケットに入って移動を介助してもらっている。

 こういう姿を他の妖精が見たら何を思うのだろうか……。

 いつだか前に、妖精がお祝いの時に使う木の実に似たやつが玄関に急に現れるようになったことを思い出した。動物が運んでいるのかもしれないんだけど、もしかしたら妖精が……?

 不安とか悲しさとかではない。ただ、単純な疑問として仲間がいるかが気になった。昔見た『まあるい月』を見て、ふと思い出しただけ。

「……昔、師匠と満月を眺めたこともありました」
 ごく小さな声で先生が言った。
 師匠、というのは先生に心の治療方法を教えてくれた大先生だと聞いていた。先生よりもすごい先生、という意味で『大』を付けて私は覚えたのだ。

 私は目を丸くした。
「先生が昔のことを話すのは……珍しいですね……!」
 そう私が言うと、先生がちょっと恥ずかしそうに頬をポリポリとかいた。
「そうですねぇ。僕はあまり過去を思い出すことはしないので」
「はい。辛い過去を思い出すことが多くなると、心が少し疲れている印なんだって、私、教えてもらいました」
「ええ、確かに言いました」
 私はチェアに座った先生の手首辺りから、彼の顔をまじまじと覗き込んでみた。
 視線に気が付いて先生が苦笑する。

「雛にも、何か思い出があるのでしょうね」
「はい、ありますよ! 妖精の暮らしって、太陽と一緒に起きて夜になるとすぐ寝ます。暗いとあんまり見えないですから。……でも」

 でも、まあるい月の日は夜でも明るい。暗い空なのに、明るい。
 だもんで、小さい頃は両親に「早く寝なさい」と言われてもけっこうはしゃいで飛び回ってたりしたものだった。

 月から視線を落とし、裏庭を二階から見下ろした。さらに視線を横にずらすと草むらが。……目を凝らせば、いや、どこか遠くには生き残った妖精がいるかも……。

 そこまで思って、むむむと考える。
(妖精がいたとして、それで私はどうする?)

「もし、雛以外の妖精と出会うことがあれば」

 両肩がビクンと跳ね上がった。今まさに考えていたことを心先生が口にしたからだ。喜怒哀楽程度の感情は分かっても心の中までは分からないと言っていたのに。本当は彼は私の気持ちが分かってしまっているんじゃないのかと思ってしまうくらいに丁度良いタイミングだった。

「僕は雛の心の思うままにしてほしいと思っていますよ」

 先生を見た。まっすぐなとび色の瞳はまるで私を包み込むよう。
「急に、何を言い出すんですか。……ビックリするじゃないですかぁ」
 困った顔で私は言ってみた。
 本当に急に、だ。
 妖精の暮らしのことを言って、夜は寝ると言って、それで……。
 過去を少し思い出し、草むらの奥の奥をじっと見つめていただけ……。

「私以外に、生き残った妖精がいるのかなって、考えはしました」
「そうですか」
「ふふ、もしその妖精が私たちを見たら、きっとすごくビックリするでしょうね」
「…………」
「ハーブティーか裏庭の花の蜜をごちそうしたいです。わーっ、こんな素敵な暮らしをしているんだって、いいなぁって思ってもらえると思いますよ!」

 私が微笑んで言うと、先生も微笑んだ。少しだけ、悲しそうな顔に見えた。

 妄想は止まらない。もし出会った妖精が私みたいに飛べなかったら、ここにもう一匹妖精がやって来ることになるかもしれない。花はふんだんにあるし食べ物には困らないだろう。先生は優しいから、きっと私みたいにここにいていいよって言ってくれそうだ。
 そうやって次々と妖精がここに来たら? まるで妖精のお家みたいになるだろう。ちょっとした村だ。『心先生の妖精村』……うん、なんだか絵本とかでありそうな感じだ。

 もやもやと村長の心先生を想像していると、彼が言った。
「そうだ……」
 急に立ち上がったので、ロッキングチェアがぐわんと大きく揺れた。手乗せのところに座っていた私は慌ててしがみついた。
「きゃあーっ!!!」
「ああっ! す、すみません……!」
 ふ、振り落とされるかと思った……! 先生が慌ててチェアの揺れを止めてくれた。

「村長! んもぉ、何するんですか!」
「そんちょう?」
「あ、いえ別に。えっと、どうしたんですか?」
「大したことではないのですが、一つ、飲み物を作ろうと思いまして」
「珈琲ですか? もう夜ですよ?」
「いいえ、雛がここに来てからは作ったことがない飲み物です」

 何だろう、それは! すごく気になったので隣で見ることにした。
 助走をつけてジャンプするとすかさず、先生が大きな手のひらで私を受け止め、流れるように彼の肩に乗せてくれた。


 小さな台所。パジャマの先生が冷蔵庫から牛乳を出して小鍋に注いだ。
「にーぜろぜろ。二百ccってことですね⁉」
「そうですよ。次は、これです」
 先生が魔法の粉の瓶から茶色い甘くなるやつを出して、投入した。
「次は、これです」
 先生が茶褐色の小ぶりな瓶を出して、スプーンに一度出してから、投入した。瓶には頭に布を撒いてある人間の顔が書いてあった。
 ガスコンロという青い火で小鍋が温められている。すぐにふわんと不思議な香りが漂った。いつものハーブの香りではなかった。

「くんくん、くんくんくん」
「気分が悪くなったりはしていませんか?」
「くん。……はい、特には。ただ、初めての香りです」
「まぁ、そうかと思います。これはラム酒と言います」

 かき混ぜて、先生お得意の『いい感じ』のところで火を消し、いつものマグカップに中身を入れた。冷蔵庫からバターと呼んでいる薄い黄色い欠片も出して、カップにポイッと入れた。

「本来ならシナモンを入れるそうです」
「ほぉー」
「でもそのような高級なものはこの家にはありませんので。シナモンはナシです」

 カップから白い湯気がほわほわ見える。
 それを先生は大事そうに持って、私たちは再びロッキングチェアに戻ってきた。

「少し肌寒い季節になってきましたね」
 秋の虫が鳴く。夜の時間が増えていく、何だか物悲しさを感じる季節だ。

「昔、師匠と満月を見ながらこのホットミルクを飲んだことがありまして」
 静かに先生が呟いた。
「まぁ、師匠はお酒をたしなむ人でしたから、さっきの小瓶一本分のラム酒とミルク、くらいの割合で作っていたみたいですが……」
「はい」
「二人で、よく未来の話をしたものです」
 そう言って、先生がカップに口を付けた。
 今夜はどうしてか先生が過去のことを話している。過去ばかり見ていたらあまり良くないといつも言っている先生が。
 ちなみに師匠さんはもういないらしい。生きているのか死んでいるのか分からないけれど、大切な師匠さんとはもう会えないのだ、と前に先生は言っていた。

「どうして昔のことを話すのか、疑問に思うでしょう」
 またまたまぁた、先生が私の気持ちをズバリと言い当てた。
「思いますよ。珍しく昔話をして、珍しくホットミルクを作ったりして」
「そうでしょうね」
「先生、どこか具合でも悪いんですか? あんまり普段と違うことしてしまうと、明日は雨でも降ってきちゃいますよ」
 先生がふふふと笑った。

「僕はいつも満月……特に秋の夜に、いつも師匠とラム酒入りのこれを飲んだ時のことを思い出していたのですが、そろそろ上書きをしてみようかと思ったんです」

過去は変えられない
過去が辛いもの、苦しいものであればあるほど
変えられない過去を思い出して今を辛くする必要などない

誰もがいろんな思い出を持っていて
良くも悪くも、様々な事象と結びつけてしまい
幸せな思い出に浸ることは素晴らしいけれど
苦しい思い出を掘り起こすのはなぜか

過去に囚われすぎないように
今の幸せと感じる出来事と結びつきを新たにする

いまではないいつか、に先生がメモした古びたノートより

「これから満月を見るたびに、僕はきっと雛とこれを作ったことや、一緒にチェアで揺られながらお話したことを思い出すと思うんです」
「……それは、素敵な思い出ですか?」
「はい。ものすごく。今までは師匠のことを考えて、あぁ師匠にはもう会えないんだと必ずその事実を受け止めなくてはならなかった。
 でも今日のことは違います。隣に雛がいて、一緒に話した。未来のことは分かりませんが、一緒にラム酒入りホットミルクを飲んだことは変わることのない事実です。
 この先に何度も思い出すことができるなんて、それはとっても素敵なことだと僕は思っています」

 心先生が湯気の隙間から柔らかな笑顔とともに言い切った。

 私の思い出も上書きされたような気がした。
 隣にいる人が、家族だけだったのが心先生も一緒、に変わった。
 そしてラムの香り、先生の声、虫の音、ゆらりゆらりという振動。
 五感を通して彩り豊かに点と点が結びついた気がした。

「できることなら、心先生との思い出は過去にはしたくないですけどね!」
 私は寂しさを吹き飛ばすように、にっこり笑って先生に向かって言った。まるで私が他の妖精とどっか行っちゃうみたいな雰囲気になってますが。
「ずっと隣にいたいです、と言っているんです!」

 先生が目をパチクリさせて、無言でチェアを揺らし始めた。
 これは……返事に困っているのをごまかしているのではなかろうか……?

 揺らしたせいでカップの中身がこぼれそうになった。
「一旦この小さいテーブルに置いたらどうですか? 先生」
「そうします」
 コトリ、と先生がカップを置いた。
「全然飲んでない感じですけど……?」
「あ、熱すぎてですね……。冷めるまで待たないと飲めないようです」
「えぇ……?」

 私は不思議に思う。いろんな知識や言葉を知っている先生が時々おかしな行動をすることに。じゃあ実際、昔の先生って一体どんな人だったんだろう。私と出会う前、師匠さんと一緒にいた頃、それよりも前、もっと昔。
 ……子供の頃。先生にだって、子供の時代はあったんだろう。

「ホットミルクが冷めるまで、お話をしてほしいです」
「絵本ですか? 昨日の続きからでいいですか?」
 先生が柔らかな笑顔で尋ねてきたが、私は首を横に振った。
「いえ、今夜は昔話がぴったりの日ですから、心先生の昔……例えば、子供の頃とかを聞いてみたいですね」
「子供……」
 さすがにだめだろうか。けっこうたくさん私はここで過ごしているけど、先生は昔話を全然しない。聞くと悲しい思い出にも繋がっちゃうかもしれないと思って、今までなかなか言い出せなかった。

「いいですよ。何歳頃にしましょうか」
 なんと! 話してくれそうなことに私はものすごくビックリした。
「いいんですかっ⁉ えっと、ええっと……」
「そんなに興味を持たれても困るのですが……。そうですねぇ。……じゃあ、僕が物心ついた一番古い記憶から、お話してみることにしましょうか……」

 私の空色の瞳がまあるくなった。
 心先生の一番古い記憶。
 子供の心先生。


 ふと隣の小さなテーブルのマグカップを見ると、まあるいカップの中のラム香るホットミルクが、まるで空に浮かぶ『満月』のようにゆらゆらと揺らめいていた。




(おしまい)


テーマ/過去を素敵な思い出に変えていく(約5,300字)

心先生と雛、と言えば連載小説「心の雛」に登場する二人です。本作を読んでいない方でもお気軽に読み進められるように書けていたら幸いです。
先生が飲んだのは「ホット・バタード・ラム・カウ」。小瓶のラム酒はミニボトル50mlを想定しています。シナモンはお好みで。

ここに登場する『妖精』は『人間』に襲撃される過去を持っております。雛は妖精ですが心先生に保護され、かなり人間の感覚に近くなっています。

小説の中盤で心先生が言い淀んでいるのは、雛が人間と一緒にいる姿を見た『他の妖精』のパターンを想像していたからです。
パターン1:雛を人間なんかと馴れ合っている異族と見なし、攻撃する
パターン2:人間は全て悪、と判断して奥野心を攻撃する
他にもいろいろ考えられますが、雛の思い描く平和な出会いは難しいと感じていると思っているのでしょう。いつか復讐の争いが起こってもおかしくはないはずです。

秋の夜長、と言いますが、秋はなんだかホットミルクでも飲みながら昔話…がぴったりの季節と思います。個人的に。ただの素ミルクでも良かったのですが、カラメルを焦がしたようなほろ苦い香りのするラム酒を追加することで、思い出にもほろ苦さを一匙出したかった理由もありました。

皆様の記憶の中で一番古いもの、何でしょうか。


最後までお読みいただき感謝申し上げます。

心先生サイドの番外編



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