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【連載小説】「心の雛」第十五話
(第一話はこちらから)
https://note.com/pekomogu/n/ne7057318d519
※この小説は、創作大賞2024「ファンタジー小説部門」応募作品です。
(本文 第十五話 1,811字)
満員電車から逃げるように降り、よろめきながらどうにか人の来ない場所まで移動する。思わずしゃがみ込む。Yシャツの首元を乱暴に開放し、犬のように激しく息をついた。
「師匠……」
小さく呟く。
通勤のための満員電車は、僕にとっては地獄だった。人に触れすぎる。負の感情に飲み込まれる。あらゆる「心」が僕の頭の中に無遠慮に入ってきて、苦しくなる。吐き気がして、でも気持ちの問題の不調と分かっているがために吐いて楽になることもできなかった。
街で医師を続けることはできないと悟り、僕は森の奥に引っ越した。ここならむやみに人と触れ合うこともないだろう。落ち着いていて時間を忘れそうなほどのどかなこの場所で、患者様とだけ接触し、その程度の負の感情なら僕自身でどうにかやっていけると考えてのことだった。
できる限り日々平穏に過ごした。刺激のない毎日が僕にとっては至福だった。
森にいる僕に必要なのは、生きていくための必要最低限のお金と天気予報、衣食住、それと、大好きなプリンだけで良かった。
プリンは、昔孤児院で出されたおやつの一つだった。質素で貧しい孤児院の暮らしではプリンは贅沢品だった。生クリームなどは乗っておらずシンプルな……牛乳、卵、砂糖のみで作られたプリン。砂糖も贅沢品だ。その砂糖を煮詰め湯で粘性をつけたカラメルをかける。それが、僕にとっての最高のおやつだった。
いつしかプリンは僕の心の安定剤になった。
「いただきます」
毎日一個だけプリンを食べる。
その時間だけは何にも変え難いものになった。おやつの時間があるだけで、患者様の心の痛みで自分がいくら傷つけられようとも、食べて、寝て、また明日生きていけるようになるから本当に不思議だ。
ある日から我が家に雛がやって来た。雛と言っても鳥ではなく、羽が折れて千切れてしまった小さな妖精の女の子だ。
まるで雛鳥のように介助が必要そうだったので、あと名前がないということだったので、僕が名付けた。何やら不服そうだったけれどそれでいいと言われた。ホッとした。僕はネーミングセンスが恐ろしくないらしい。
手のひらサイズの彼女の好物は『花の蜜』だとか。僕が毎日プリンを食べるので、彼女もその時に好きなものを一緒に食べたらどうだろうかと尋ねてみたのだ。物語でよくありそうな「妖精=花の蜜」という構図に、僕はひっそりと微笑んだ。すぐに裏庭の花の種類を増やした。花を摘み取る時に『申し訳ない、ありがたくいただきます』と一言添え、毎日僕は花を摘む。
茎と花の繋ぎ目にある蜜を、雛はすごく美味しそうにちゅっちゅと吸う。昔サルビアの赤い花を口にした頃を思い出す。
「美味しいですか?」
「はい! とっても美味しいです!」
雛といると昔の出来事の中で楽しかったこと、嬉しかったことをよく思い出す。
触れていないのに不思議だと思う。
雛……、これも妖精の力なのだろうか。
雛と出会う前の、僕の気持ちの波はゆるやかで穏やかだった。
雛と出会ってからは、波が穏やかではあるけれど少し幅が広がった。
感情の幅が広がった。世界が少しだけ広がった。嬉しいとか幸せだと感じることが多くなればその分、雛と会う前には感じることのなかった不安がちらりと顔を出す。
『先生ーっ』
柔らかな栗毛を腿まで伸ばし、歩くたびに長い髪も軽やかに跳ねる。透き通るほど白い絹肌、紅葉のような小さな手、ペタペタと小さな足で懸命に僕のお手伝いをしようと頑張ってくれている雛。ツンと尖った耳を見るたびに、僕は彼女が人間ではないことを自覚する。だけどそれ以外は人と同じ。喜怒哀楽の感情を持った、僕と同じ生き物なのだ。
決して狩られていい存在ではないはずだ。
僕は恐れているのだと思う。
雛がいなくなってしまうことに。
そんなこと起こってもいないくせに、起こったらどうしようという見えない不安がある。
それは心を治す医者には不要な感情なのかもしれない。
いつも安定して同じように、患者と向き合わなければ医者失格だ。
でももう一人の僕は叫ぶ。僕も人間だと。人間だからこそ、様々な感情を持ってしまうものなのだ。大事なことは感情に蓋をすることではなくてきちんと向き合うこと。不安があるならそれを見つめて、認めて、正直になること。
僕は雛をとても大切だと思っている。
それは確かだ。
雛。
出会うことができて嬉しいと思う。いつも本当にありがとう。
(つづく)
第一話はこちらから
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