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私の自己紹介⑤〜多様性・協働・共創造的な場や活動づくりを目指す「これから」のビジョン〜

前回の投稿では、昨年度行なった地域の方々とこどもたちとの協働によるローカルマガジンづくりプロジェクトについて書きました。

今回は、私自身の「これから」のビジョンや、それに対する思いについてまとめていきます。長文になってしまいましたが、ご覧いただけたら嬉しいです😊

私が目指す場・活動〜多様性が原動力となる、協働・共創造的な動きが生まれ続ける場〜

私がこれまでの経験を踏まえこれから実践していきたいことは、こどもを中心としつつ、多様な方々が集って未知のものを協働・共創造していく動きが日常的に行なわれるような場づくりです。

また、そのような活動を広げているような活動や場における人々の学び・育ちの瞬間を捉える取材や研究をし、まとめ・発信することで、緩やかな横のつながりを生み出すことができたらと思っています。

このような場や活動づくりを目指す理由としては、大きく2つあります。まずは、現在まだまだ根深い「生産性を中心とした台形型のライフサイクル」や「銀行型教育」的な価値観を越えるために何等かのアプローチをしたいという思い。

「オトナ-コドモ」という対立構造を内包した発達観や、そのような対立構造(「成熟している人・知っている人から、未熟な人・知らない人へ」というリニア的な関係性)に基づいて為される、予め「正解」が決められたような教育観に対する違和感を、今回のコロナ禍に伴う休校中の課題やそれを取り巻く様々な声をきっかけに、今まで以上に強く感じています。「今、ここ」の関係性の外側から一方的に与えられる「発達段階」「勉強」を越えた、協働的・共創造的な発達観・教育観を基軸に据えた実践を行なっていきたいです。

もう1つの理由としては、好きなことや楽しいこと、共通の興味や関心を中心に人々が集うコミュニティーを作りたいという思い。これはおもちゃ売り場のイベントづくりや、コミュニティー・スペースでの活動が原体験になっています。山崎亮先生がおっしゃる「テーマ型コミュニティー」(『コミュニティデザインの時代』(2012年、中央公論新社)という概念に近いのかも知れません。

わくわく・ドキドキ・ハラハラなどの情動を伴いながら生まれていく未知の実験・探求・創造・冒険の中では、年齢や性別(セクシュアリティー)、所属する場や住んでいる地域、持っている長所や特技、これまでの人生経験などのような一人ひとりの違いは、活動それ自体を展開させ続ける原動力になると考えています。もちろん、そのためには、それぞれの違いが尊重されるような安心感・安全感が十分に保障されていることが大前提となります。

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さらに、未知のものを生み出すプロセスに付随する「この人の良さと、この人の良さと、自分の良さを生かしたら、どんなことができるだろう」「どうすれば、より一人ひとりが安心して良さを発揮できるような場・環境・雰囲気づくりができるだろう」という「答え」のない問いそれについて対話しながら活動と場の双方をよりよく変化させていく営みは、単に活動を展開させるにとどまらず、民主的な社会を築いていくための小さな・けれど大きな一歩になるのではないかと考えています。

このような活動や問いに導かれるようにして発揮される”活動や関係性の内側から協働で変容を生み出す”力こそ、現在支配的な発達観・教育観とはまた違った、オルタナティブな発達観・教育観として捉えることができるのではないか、というのが私の仮説です。

目指す場や活動のイメージ〜オロロージョと「第三の空間」〜

このような思いや仮説を具現化する上で
イメージしているのは、一昨年のレッジョ・エミリア現地研修で訪れた「オロロージョ」、そして最近知ることができたスウェーデンの「第三の空間(Tredje Rummet)」です。

まずは、オロロージョについて。

↑詳しくは私が書いているもう1つのブログにまとめたのですが、2年後の今時点から振り返ると、

・「0~99歳(つまり、誰でも来ることができる)」に開かれた場であること

・「〇〇を作ろう!」などのような「プログラム」形式ではなく、多様な人々が協働しながら共創造することができる「プロジェクト」が自然と生まれるような環境づくりがなされていること

・その中で生まれる活動・学び・育ちを”動き”として捉え、そのプロセスがドキュメンテーションとして残されていること(幼児学校とは異なり、文字を扱える年代の人々が自らの手でドキュメンテーションをつくるプロセスに参与するという点が重要だなぁと感じました)=支配的な発達観・教育観を越えるためのストラテジー

という3点がオロロージョの大きな特長なのではないかと思います。

研修中に来場者が活動する様子を見ることはできませんでしたが、私の一年前にレッジョを訪れた方が「あるこどもたちの集団はロボットを動かすためにあれこれプログラミングを工夫し、その近くにいた別の集団はオリジナルの音楽をつくっていた。いつしか自然と両者の活動が混ざり合い、出来上がった音楽に乗ってロボットが踊るという活動が生まれていった」という光景をオロロージョで目の当たりにしたと報告されていました。

「みんなで同じものをつくる」でも、「それぞれが分断された状態で何かをつくる」でもなく、緩やかなコラボレーションが自然と生まれる可能性に満ちた場って素敵だなぁと感じ、その報告を聴いた1年後、実際にオロロージョを訪れることができたことに感激しました。

もう1つ、実際には訪れたことはありませんが、雑誌『発達』第162号(2020年、ミネルヴァ書房)の淀川裕美先生が執筆された特集「地域開放の『第三の空間(Tredje Rummet)―スウェーデンにおける新たな物語り(2)」で取り上げられていた「第三の空間(Tredje Rummet)」という場にも興味を持っています。

「第三の空間」は、レッジョ・エミリアのレミダからインスパイアされた施設(ただし、レミダをそのまま模倣した施設ではない)であり、ポストコロニアリズムの理論家であるホミ・K・バーバが提唱した「文化の異種混淆性(カルチュラル・ハイブリディティ)」という概念が大切にされているとのこと。

↑レミダについては、こちらをご参照いただけたらと思います。

…バーバが提唱する「文化の異種混淆性」とは、文化を固定的で対立的なもの(すなわち文化的差異)と見なすのではなく、両者の文化が相互に翻訳し、模倣し、互いの中に入り込むことで、新たな文化が生まれることを意味しています。それは、一方が他方を抑圧するのでも、一方が他方に完全に従属するのでもない、異種混淆の生産(異なるものが混じり合うことで生み出されるもの)であり、二つの文化が存在する中間領域、境界線上で起きると言います。その文化空間のことを、バーバは他の思想家の言葉を借りて、「第三の空間(Third Space)」と呼びました。(淀川裕美「地域開放の『第三の空間(Tredje Rummet)―スウェーデンにおける新たな物語り(2)」2020年 より)

「『第三の空間』の活動は、訪問者が持ち寄った素材によって成り立ってい」るとのこと。さらに、糊などを使って固定せず、「作られたものは完成品となることはなく、素材は再利用され続ける」そうです(ちなみにレミダでも同様に糊を使いませんでした)。これは素材の「再利用(リユース)」「再循環(リサイクル)」という環境資源面での「持続可能性」という側面だけでなく、民主的・協働的・共創造的で「文化の異種混淆性」が大切にされた社会の持続可能性を暗喩しているのではないか(つまり、それぞれの違いを持ち寄り、それらが抑圧関係・従属関係に陥ることなく、まだ実現されていないものを創造・再創造し続けていくという動きを生み出す)と感じました。

「糊を使わない」というのも「メソッド」や「How to」(このように捉えてしまうと、「糊を使ってはいけません!」というようにドグマ化する恐れがある)では決してなく、様々な違いや可能性を持つ人々が、文脈や状況に応じて結び合い・解かれ・また異なる結び合いが生まれ…をとめどなく繰り返していく動的な人間観、そしてそのような人々の対話と協働から立ち現れ・変容していくリゾーム(根茎)的な社会観のメタファーであるように感じました。

このような「第三の空間」の理念・哲学、そしてそれを具現化する実践からは、「ルール」があたかも固定的・不変的・絶対的であるかのように見做され「ルールを守りなさい!」と一方的に押しつける独裁的な社会観を越えたコミュニティーが創造されていく可能性を感じることができます。

オロロージョと「第三の空間」…これが、今時点での私の「これから」に重なる取り組みだなぁと感じています。まだまだ学びが足りないため、このような実践をされている場についての情報を積極的に収集し、可能ならば訪れ、取材・私なりに研究できたらと思っています。

私自身の実践を振り返る〜コミュニティー・スペースでのプロジェクト〜

まだまだ至らぬ点だらけですが、昨年度、ビジョンを形にするため、勤務しているコミュニティー・スペースでプロジェクトを行なわせていただきました。

このプロジェクトで見られた、私が大好きな光景を紹介します。

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参加者の方々のプライバシー保護のためモザイクをかけさせていただきましたが、少しでも雰囲気が伝われば嬉しいです。

画面左の写真は「どうすれば、たくさんの方々に自分たちが作ったマガジンを購入していただけるか」という問いに対して、こどもたちがそれぞれ活動を膨らませていった場面を写したものです。

ある子たちは「コミュニティー・スペース自体を明るい雰囲気にすれば、きっと立ち寄ってくださる方々が増えるのではないか」という仮説に基づいて「風船と毛糸を使ったランプシェードづくり」を行い、
またある子たちは「YouTubeに動画をアップすれば、きっと自分たちの活動を知ってもらえて郵送販売の申し込みが増えるのではないか」という仮説に基づいて、これまでの取材や活動で撮影した写真を動画制作アプリで編集し、CM動画を制作していきました。それぞれの活動は緩やかに混ざり合い、お互いがお互いの活動状況をなんとなく把握しながら、時折活動を越えてやり取りしつつ制作が展開していったことに感動したことを覚えています。

画面右の写真は、プロジェクト発足当初から「目が見えない方々にもマガジンを読んでもらうため、マガジンの点訳をしたい」という思いを抱いていた子と、地域の社会福祉協議会の方を通して繋がらせていただくことができた、長年点訳に携わってこられた方とのコラボレーションが実現した瞬間を写したものです。

当初はマンツーマンで点字を教えていただく形でしたが、次第に周りの子たちも少しずつ点字に興味を持つようになりました。その結果、ある子は「点字器持って帰っていい?家で練習してきたい!」と話してくれました。また、彼自身も自主的に点字の成り立ちや触覚識別表示について家で調べ、学校で出されている自主学習ノートにまとめることができました。

「マガジンをつくる」という「ゴール」に囚われ最短距離で進むような活動や、「記事を書くことで国語力が、販売することで算数力が、写真やイラストを通して表現力が身につきます」という矮小化された「学力」観に陥ることだけは絶対に避けたかったため、このような多様な活動が展開し、再構成され…という動きが生まれたことは私自身にとっても嬉しいことでした。

また、こちらの記事でも紹介した「地域の〝伝説の生き物〟を表現する」という活動でも、こどもたちの活動を中心にしつつ、まち歩きや歴史に詳しい方、動画撮影・編集が得意な方、コミュニティー・スペースに関心を持ってくださり他県から来られた保育士の方などがコラボレーションし、当初予測していなかったダイナミックかつユニークな展開が生まれていきました。

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↑プロジェクトの一場面。多様な方々が集い、未知のものを生み出す「今、ここ」にそれぞれが持つ良さを注ぎ合ってこれから徐々に形になっていく…そんな活動開始時の息遣いを感じることができる瞬間です。

創るもの、生み出すものやテーマは「マガジン」「伝説の生き物」に限らず、そこに多様性が注がれ得るものであれば良いのではないかと思います。こどもたちが興味を持ったものを出発点にして、そこからそれぞれのアイディアを持ち寄って対話をしながら豊かに膨らませていくのでも良いし、地域の困り事に対してみんなで解決策を創造していくのでも良いかも知れません。

きっかけとなる場や環境を保障し、「正解」を持たない共同研究者・共同探求者・共同冒険者として参与しながら活動を深め、その中で生まれる動きに目を向けて記録・研究し、発信していく…「先生」とはまた違った役割を担う存在が求められるように思いますし、私自身がそのような役割を担えるよう努めていきたいです。

まとめ〜目指す道は困難だけれども、だからこそ目指したい〜

今回の新型コロナウィルスの影響に伴う様々な活動の断念を受けて、このような場の持続可能性という課題や、「生産性を中心にした台形型のライフサイクル」的な発達観や「銀行型教育」的な教育観が支配的な言説である世の中でそれとは異なる文脈の実践を行うことの難しさを痛感しました。

けれど同時に、それを越えた発達観・教育観・コミュニティー観の必要性・重要性も感じており、そのような思いを抱きながらもアクションを起こせない状態が自分にとって一番ストレスであることも感じています。

1人・独りでは実現が難しいですが、少しでも共感していただけたり、わくわく感を抱きながら「どうやったら実現可能か」を考え合っていただけたりする方々と繋がらせていただけたらと思い、拙いながらも勇気を出して発信させていただきました。

もしご興味を持っていただけたら、ぜひ繋がらせていただけたら嬉しいです😊

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↑ちなみに、ブログタイトルのこちらの画像は、オロロージョで撮影したものです。

有機物と無機物、デジタルとアナログ、動と静、光と影…異質なものが混ざり合いながら、その組み合わせが変わるたびに未知の動きや陰影が浮かびあがる…その様子が、まさに私が目指したいものを象徴している気がして、レッジョ研修報告会などをさせていただく際には必ず提示させていただいている写真です✨

最後までご覧いただき、ありがとうございます✨


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