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高校の日本史の最後の授業の話。前編

あの頃。皆さんも高校生だったり17才だったりしたことがあったかと思います。僕も、17歳だったりしたことがありました。みなさんも僕も、それぞれ違う17歳や高校生活を送ってきましたが、僕の、高校での最後の授業のお話をしたいと思います。


 小学一年生のころからなんとなく勉強をしていて、特に勉強が面白いと一度も感じることはありませんでした。しなきゃいけないみたいだから。という理由で、ついには6歳から16歳まで十年くらい勉強をするふりだけで過ごしていたように思います。

 なので、夏休みの宿題にさいなまれた経験やテスト勉強、受験勉強が辛かった。という経験もあんまりないのです。なんとなくでしかやっていないので、とにかく勉強に対してあんまり記憶がありません。

 (一つ思い出されるのは、いつもは優しかったおばあちゃんが、なぜか小学校の夏休みの勉強の時だけ、古代スパルタ人に転生して、一メートルの物差しをバンバンやって僕と妹を教育していたことです。ですが僕がふざけると、おばあちゃんは僕につられて笑ってしまい、いつもうやむやで終わりました。一体あのプレイはなんだったのだろう。)

 勉強の記憶があんまりないというのは、人々が発する、え、それって人生の六割損してるよ!という言葉に該当するのかもしれません。僕も同じ言葉を発したことは何度かあります。え、ピスタチオのおいしさわからないの?生まれてきた意味ないじゃん!とか、その類です。

 僕は、簡単に言ってしまえば、勉強する意味が分かってなかったんです。勉強する意味は人それぞれですし、それぞれの価値観で勉強するだけでそれはもう素晴らしいことだと思います。勉強する意味は、それぞれにたくさんあると思います。ただ、僕は分からなかった。

 今もし、嫌でも一生懸命勉強している10代の方々がいるのであれば、それはとても素晴らしいことです。僕はそういう人を尊敬しています。凄いです。ほんとですよ。

 そんな僕にとって学校は、特に何もない場所でした。ただ友達とかがいるただの場所でした。

 そして、高校二年の冬に高校を辞めてしまうんです。父親に凄まれ母親には泣かれ。父親は小さな会社を経営していたので、経営者の立場で僕を諭しました(親なめとったら殺すぞと言われました)。結局、紆余曲折を経て、通信制の高校へ通うという折衷案となりました。

 二回目に通った学校は生徒が3000人くらいいて、6階建てくらいのとても大きな建物でした。通信制といっても通学の必要はあったので、登校すると、普通の高校生活では接することのない高校生たちがたくさんいました。まず、生徒の年齢は16歳から84歳までいましたから。

 特殊な病気で通常の高校生活は送れないけれど高校生活を送りたい!という少年。子供の頃から働かされていて、親に勉強をさせてもらえなかったけれど、もう一度勉強をしたい!というおばあちゃん。

 社会に出て普通に経済を回している社会人の方たちもたくさんいました。会社を経営している社長。部下を何人も指揮している本部長。みるからに尖がっている気合の入ったガタイの良いお兄ちゃん。普通の高校生活では、絶対に隣の席には座らないであろう、とても綺麗でエロい年上の女性。(こんな高校生活ありますか?!隣にエロい五つくらい年上の女性が同級生席に座っているんですぞ?)



 学園もののアニメなのかというほど、一緒に授業を受ける人たちがカラフルな属性を持っている。そんな環境で、僕は二度目の高校生活を始めることになったのです。


二年後、僕はその学校を卒業します。


卒業の年。今でも記憶に残る日本史の授業を受講することになるのでした。



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