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小説 「つくね小隊、応答せよ、」

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第二次世界大戦末期。 東南アジアの、とある島。 米軍の猛攻により、日本軍は転戦(撤退)し続け、日本兵たちは、ちりじりに離散した。 そんな中出会った別々の部隊の若い日本兵の3人、…
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#第二次世界大戦

「つくね小隊、応答せよ、」(廿四)

兄、九右衛門、片頬で、にやりと笑います。 「六右衛門さまの顔に泥をぬっときながら、何事も…

「つくね小隊、応答せよ、」(38)

がさっ 三匹の前に現れたのは、バナナの葉で編んだ笠をかぶった、小さな老人だった。裸足に黄…

「つくね小隊、応答せよ、」(39)

「しまぜんたいが、あなたがたのてきなのです…それでは…さようなら」 ドゥエンディが片手を…

「つくね小隊、応答せよ、」(40)

「敵襲うううう!敵襲うううう!五時の方向!艦砲射撃!!」 斜面の岩陰から声が聞こえた。 …

「つくね小隊、応答せよ、」(41)

仲村が暴れ、水面を叩くと、高く水しぶきがあがる。イリエワニは水中に潜り、仲村に噛み付いた…

「つくね小隊、応答せよ」(42)

好戦的で動きの素早い早太郎。 周囲一帯を燃やすような金色の炎を吐く狐。 まだ手の内を明か…

「つくね小隊、応答せよ、」(43)

路面電車が通りを走り、大八車や屋台や行商の人々が街を闊歩する。渡邉道雄が生まれ育った街だ。 明治維新の頃、この街を治めていた藩主は、新政府側についた。 維新後は、新政府の推し進める近代化政策にいち早く取り組み、城内にあった藩校を、子どもたちの学校として開放する。 さしたる資源のないこの地域では、モノではなく、ヒトを財産とするべきだ、と教育に力を入れたのだ。 維新から十年ほどすると、よその地域か人々が町づくりの視察に訪れるようになり、当時はまだ導入されていなかった技術や産業

「つくね小隊、応答せよ、」(44)

1934年。昭和9年。 16歳の甚が広島へ旅立つ日。 人々が見送りに集まった。 町のシンボ…

「つくね小隊、応答せよ、」(45)

金長は力士の姿から、もとの自分の姿に戻る。 体が大きくなれば、彼らは逃げると思ったが、こ…

「つくね小隊、応答せよ、」(46)

金髪で少しふくよかなチャーリーが、煙草を咥え、小銃を構えて歩いている。 「でよ、コネチカ…