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「つくね小隊、応答せよ、」(43)

路面電車が通りを走り、大八車や屋台や行商の人々が街を闊歩する。渡邉道雄が生まれ育った街だ。

明治維新の頃、この街を治めていた藩主は、新政府側についた。
維新後は、新政府の推し進める近代化政策にいち早く取り組み、城内にあった藩校を、子どもたちの学校として開放する。
さしたる資源のないこの地域では、モノではなく、ヒトを財産とするべきだ、と教育に力を入れたのだ。

維新から十年ほどすると、よその地域か人々が町づくりの視察に訪れるようになり、当時はまだ導入されていなかった技術や産業が集約され、かなり早い段階で近代的な教育、ガス燈、水道、役所、そして紡績工場などが整備された。

1932年、昭和7年。
14歳の道雄は、中学校へ通いながら、祖母ユキの経営する食堂の手伝いをしている。

あまり人付き合いが好きではなく、どちらかと言えば苦手な道雄にとっての、唯一の友であり、親友である甚は、文武両道で家柄も人当たりもよい。
だから今まで、道雄のほうが相談することが多かったが、今日は彼から相談したいことがあるのだという。一体どんな話なのだろうと、道雄はぼんやり考えながら路面電車が走る大通りを進んだ。

「道雄、こっちだ」

甚に呼び止められた。道雄はあたりを見回したが、通りに甚の姿はない。
空耳かと思ってまた歩きだそうとすると、

「道雄!」

と、また呼び止められた。
声は、通り沿いの店の中から聞こえる。
最近できた“純喫茶”の窓越しに道雄が手を振っている。

大正に入り、カフェ文化が花開いた。
しかしカフェも次第に形を変えて、女子給仕が男性客の接待する形が増え、やがてチップで女子給仕たちが稼ぐというものが主流になった。
そうなると、ほかの店の女子給仕に客をとられれば自分の稼ぎが減るので、提供するサービスはどんどんエスカレートして行く。そうなると、女性や子供が入れないようなカフェも存在し始めた。

そんな“カフェ”と本意での“カフェ”を区別するため、純粋に喫茶店として営業しているカフェは“純喫茶”と名乗りはじめた。

大人たちに混じり、学生服の14歳の少年が純喫茶にいるのはある意味不思議な光景だが、彼の纏う育ちの良さが、その違和感を中和させていた。渡邉は、恐る恐る純喫茶の扉に手をかける。

かろんかろから

学生服に学帽の道雄は、カウンターの向こうの黒いチョッキを着た店主に帽子を脱いで頭を下げ、先に座っている甚の方を指さした。店主は、黙って頷く。

不安な面持ちのまま道雄は席につくなり言った。

「おいおい、俺、金持ってないぞ?っていうか、子供がこんなとこ来ていいのか?」

甚は学生服姿で足を組んで、白いティーカップに入った黒い液体を飲みながら笑った。

「おいおい、40年前は15で立派な大人だ。そして俺たちはもう14。いいじゃねえか」

「いや、明治はそうだったかもしれんが、今は昭和だ。こんなとこにいるのを、学校にでもばれたら、めんどくさいことになるぞ?」

「おいおいおいおい。デモクラシーの真っ只中に生まれた人間とは思えん発言だな。主権国家の自由のもとで学校にそんな権限はない。なにか言われたら俺が話をするさ。おい、道雄、お前も珈琲でいいか?」

道雄は首をかしげる。

「コヒ?なんだそりゃ」

「俺が飲んでるこれだ。心配するな。ここの代金は俺が持つ」

甚は手慣れた様子で、珈琲を注文した。

「お前、いつもこんなとこに来てんのか?」

道雄は、同い年とは思えない甚を、呆れた顔で眺めながらそう訊いた。
甚は窓の外を見ながら少し笑って言う。

「ああ。一人になりたい時に、よく来るのさ」

14歳が一人になりたい?なんだそれは。道雄が呆れた顔をする。それを見て、甚が大笑いする。

「嘘だよ。おやじと、この前来たばかりだ。正直、珈琲の良さもわからん。純喫茶といえば珈琲だと、おやじが言ったから飲んでるだけだ」

甚は少年のような笑顔でそう言った。いや、14歳といえば、充分に少年そのものなのだが。
ほどなくして、道雄の前にも珈琲が運ばれてきた。立ち昇る湯気の匂いを嗅ぎ、首を傾げて一口すする。そうして道雄は顔をしかめ、店主に悟られぬように甚に小声で訊ねた。

「…おい、これ、焦げたやかんで湯を沸かしてんじゃねえのか?ひでえ味だぞ?お前のも飲ましてくれよ」

甚はニヤリと笑って、自分のカップを道雄に手渡した。道雄は一口すすってまた顔をしかめた。

「おい、この店、新しいやかんも買えないのか?」

少し興奮してそう言ったので、店主が道雄をじろりと睨んだ。
奥の席でタバコの煙をくゆらせている男が新聞をめくった音がする。興奮して緊張していたから気づかなかったが、店はかなり静かだったようだ。
そんなことには構わず、甚は道雄を眺め、楽しそうにしている。

「新品のやかんでやったとしても、珈琲はこの味だ」

「そ、そうなのか…西洋の奴らは面白いもんを飲むもんだな…」

「西洋の人間からすりゃ、豆をすりつぶしたスープを毎日飲んで、草で作った緑の汁を飲む日本人のほうが、よっぽど奇天烈さ」

「そんなもんかな…」

「ああ。そんなもんだ」

そう言って甚は、珈琲をすする。
道雄も珈琲をすするが、やはり顔をしかめた。

「…で、それで、話ってなんだよ」

しかめ面の道雄のその言葉で、甚はひとつ頷いて深刻な顔で前のめりになる。

「道雄、俺は、海軍兵学校に行く」

甚は突然、そう言った。

「は?」

海軍兵学校?

海軍?

兵隊?

広島にある海軍兵学校へは、汽車を乗り継いで丸一日半かかる。
そんな遠くの学校へ通うのであれば、通学などではなく、当然、宿舎での生活になる。町を出るということだ。

「…おやじさんたちは、いいって、言ったのか?」

道雄の口から真っ先に出てきた言葉はそれだった。

数十年前、日本海海戦で、世界最強と唱われたロシアのバルチック艦隊を撃破した日本海軍。海軍兵学校は、その海軍が創設した、海軍のエリート養成のための学校だ。

だからこそ、そこで学べるということは、日本人にとって誉れ高きことだった。しかし、いかに誉れ高き海軍兵学校といえども、甚の両親は、一人っ子の彼を通わせるだろうか。

甚は、珈琲を覗きながら小さく答えた。

「父と母には、まだ言ってないが、実は、学校にはもう言ってある。先生が言うには、俺の成績なら、学費もいらんということだ。先生も学校から兵学校へ入学者が出るのは名誉なことだから、できる限りの援助をしたいと申し出てくれている」

甚の家にゆくと、いつも優しく出迎えてくれる甚の両親。両親がおらず、祖母に育てられた道雄を我が子のように可愛がってくれて、ことあるごとに手土産などをくれた。優しく笑う甚の母と、厳しくもあるが頼り甲斐があり信頼できる甚の父。そのふたりが、どんな反応をするのか、道雄にもわからなかった。

「道雄、どう思う」

「どうって?」

「父さんと母さん」

「許してくれるかってことか?」

「ああ。そうだ」

「うーん…わからん。快く大賛成してくれそうな気もするし、大反対で却下されそうな気もする」

「そうなんだ。だから、どうやって言おうか、考えてる。それで、道雄、お前に相談したと、そういうわけだ」

「親父さんたちに、どう言ったらいいかってことか?」

「端的に言うと、そうなる」

道雄はしばらく考えてみた。
道雄の母は道雄を産んですぐに、祖母であるユキに道雄を預け、どこかへ行ってしまった。だから父親の顔も名前お知らない。
両親のいない道雄が、両親にそういったことを告げる場面なんて経験したこともないし、想像したこともない。唯一想像できるのは、道雄の祖母ユキに、自分が兵学校に行きたいと告げる時だが、道雄がそう言うと、恐らくユキは簡単に答えるだろう。

「あんたがしたいようにし」と。

これでは、まったく何の参考にもならない。
両親のいない道雄にそんなことを相談するなんて見当違いも甚だしいと思った。しかし不言実行の甚がこうやって人に相談するというのもなかなかに珍しい。何か理由があってのことなのだろう。

「で、なんで、俺に相談なんだ?先生から両親を説得してもらえばいい話じゃないのか?」

「え?なんでって、そりゃ、お前は、親友だからだよ」

甚は、至極当然のことのようにあっけらかんとして言った。

「それに、父さんと母さんは、お前を気に入ってる。まあ、俺の家とお前の家の昔からの繋がりということもあるし」

道雄はしばらく腕を組んで考えた。
いくら親友とはいえ、人の人生の一進一退に言及する権利が自分にあるのかどうかわからなかった。
けれども、人生の一大事の時を相談してくれた友に、自分の意見や感じていることを伝えないのは失礼にあたる気がする。

「甚、お前は、いいとこのお坊ちゃんで、昔から聞き分けがよかった。それは、お前が家柄を背負っているっていう自負もあったかもしれんが、俺は、時々お前が窮屈そうに見えるときがあったよ」

道雄がそう語りだすと、甚は興味深そうに耳を傾ける。

「正直、俺は、なにかに憧れたことがない。気がついたらばあさんの食堂を手伝ってた。なにかになろうかなんて考えたこともないし、そして、たぶんこのさきも考えることはないと思う。俺はあの食堂を受け継いで、この町で生きていくんだとおもう。
だから、お前が海軍兵学校へ行って、軍人になりたいというその気持には共感があまりできない。軍人になるってことは、死に急ぐってことだ。それを悪く言うわけじゃない。でも、要するにそういうことだ。大日本帝国海軍は強いが、戦えば誰かが死ぬ。その誰かが、お前じゃない保証がどこにもない。
俺がこの町を離れない以上…俺はお前がこの町からいなくなることがいやだし、ましてやお前が死ぬなんてことは考えられない。
…だから、まあ、簡単に言えば、俺は、嫌だね、反対だ」

「反対?俺が兵学校に行くことに?」
甚は、神妙な顔をしていたが、やがて風が吹くように笑いだした。
道雄は、笑っている甚を唇を尖らせて見つめる。
「笑うなよ」

「いや、道雄、相談してんのに、まさかお前が止めるとはな」

「すまん…でも、おれはそう思う。親友なら、お前の背中を精一杯押すべきだとは思うけど、でも、俺は、お前の背中を押せない。押したくない」

道雄がそう言うと、甚は、珈琲をすすって、窓の外をじっと見つめた。

「道雄、おまえが言うことも至極真っ当で尤もなことだ。
でも、もう決めた。
俺は、親子の縁を切ってでも、行きたいって、そう思ってる。俺は、ここにいる限り、お前の言う、いいとこの坊っちゃんだ。だから、俺が変わるために、行きたいんだよ、道雄、わかるか?」

甚は輝く若い瞳の向こう側に、悲しみのようなものを抱えていた。
その悲しみのようなものは、人々に求められることばかりをやってきた人間が、自己の深淵を覗いたときに、からっぽだったと気づいた時の絶望に似ている。闇のようなものだった。
優しい両親と裕福な家。何不自由ない暮らしをしている甚は、目には見えないたくさんのことを抱えている。
道雄は、甚の進路に対して同意したわけではなかったが、甚の眼差しを避けることができずに、黙ってうなずくしかなかった。
道雄は、親友の悩みに寄り添わず、勝手に自分の要望を伝えているだけの自分が、ひどくちっぽけで、時代や社会から取り残されているようなそんな気がした。

数日後、学校の廊下で甚に呼び止められた。
彼いわく、兵学校のことを、両親に話したそうだ。

「どうだった?」

「道雄に、とめられたって話した」

「ああ。そしたら?」

「それでも行くのか?って訊かれた」

「で、なんて答えた?」

「もちろん、はいって、答えたさ」

「そうか。おやじさんたちはなんて?」

甚は、父親の真似をしながら、腕を組んで低い声で話しだした。

「友達思いのお前が、友達の進言も聞かず、そして俺たちの思いも聞かず、それでも行きたいというんなら、それは縁を切ってでも、行く、そういうことだろ?
と、逆に訊かれたよ。さすが親だな。お見通しだ」

「それで、行くのか?」

「…ああ。行く。母さんの涙は堪えたけど…俺は、行くよ」

道雄は、黙って頷いて、おめでとう、とだけ言った。

かつて藩校だったこの場所は、今は尋常小学校や中学校に形を変えている。ここを卒業してしまえば、甚がこの町からいなくなる。残り何百日かで、道雄の唯一の友達が、この街からいなくなる。

廊下の窓越しに見える町並み。
路面電車の鐘の音が廊下へ届いた。


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