「つくね小隊、応答せよ、」(39)
「しまぜんたいが、あなたがたのてきなのです…それでは…さようなら」
ドゥエンディが片手をあげると、他の者達は背を向け、森の中へとぞろぞろ消えて行った。三匹は、それを見送りながらしばらく黙っていたが、静かになると、早太郎がそっと呟いた。
「おい、お前らは、本当に、よかったのか?あいつら、を、敵に、まわしてよ」
阿波狸合戦で勝利したものの、戦うということに対して答えが見いだせなかった金長。そして、神の使いとして、戦いとは無縁の世界で生きてきた稲荷の狐。そんな彼らを“戦い”へいざなってしまったのかもしれない、と早太郎は思っている。やがて金長が口を開いた。
「阿波での戦が終わってから、ずっと考えてたんですよ。六右衛門が言ったように、何かを守るには、何かを犠牲にしなきゃいけない。でも、その“犠牲”にも、家族がいて、そして家族たちは必ず悲しい想いをする。じゃあ、守るって、一体なんなんだろう。わっちは、どうしたらよかったんだろうって、今でも考えちゃうんです。
大鷹のためだ、小松島のためだ、茂右衛門さまのためだって、進んできたけど、やっぱり戦いは殺し合いなんですよ。
だからこの件も、わっちは、ちょっとよく、わかんないんです……でも、守るためには、戦わないといけない…それだけは、事実なんです…もしかしたら、六右衛門たちが言った“誰も歯向かわないくらいまで強くなる”っていうのが、真実だったのかもしれない…って、少しだけ、思ってます…」
早太郎はその言葉を心のなかに飲み込んで味わうように、何度も頷いた。
早太郎が退治した三匹の狒狒たちは、村人たちからおそれられ、早太郎と弁存が立ち向かうまで、だれも反抗するものはいなかった。
だからこそ、毎年、若い娘という力のないものが、生贄にされた。早太郎と弁存は、その娘の泣き叫ぶ顔を見て、その金きり声を聴いた。
それを聴いてしまっては、いかに村の平和のためとは言え、それが正義などとは少しも思えなかった。力のないものの上になりたつ平和が、果たして平和と言えるのか。
「でも…」
狐がちいさな笑顔で喋りだす。
「わたくしは、主に仰せつかって、こちらに来ています。わたくしのお役目は、彼を守ることです。だからわたしの答えはそれだけです。だから、この島のものたちと対峙してしまうのは、仕方のないことかもしれません。もちろん、彼らにとっては、日本の兵隊も、船のうえの人間たちも、そしてわたしたちも、故郷を壊す悪しき存在では、あるんですけど…」
早太郎が星を見上げ、それに続けた。
「俺も、清水忠義のおやじから何度も何度も何遍も祈られてる。で、俺はここにいる。だったら、やることはひとつだ」
金長も、何かを諦めたように爽やかに笑う。
「仲村久蔵の祖母のマツも、毎日毎日、わっちのとこの神社にお参りを欠かしません。孫を頼みます、孫を頼みます、金長さん、って。
人間っていうのはすごいなぁ、ってわっちは思います。他者のために、自分の時間を毎日使うんですよ?
…そして今、この戦争は、たくさんの国の思惑や、たくさんの人間たちの思いや利権なんかが、ぶつかりあってるんでしょう。国にも人にも、それぞれに事情がある。
…そして今仲村たちがおかれている状況はもうほとんど最悪だと言っていい。兵糧は尽き、援軍はない。
でも、でも彼らは、考えて、歩を進め、生きようとしてる。
だったらわっちのやることも、たったひとつです」
そうやって三匹が顔を見合わせると、水平線の彼方に朝焼けの太陽がのぼり始めた。
「よし。このまま川を遡上すれば、滝まで残り数時間だ。この様子だと今日は雨が降るだろう。雨が降れば、上空から俺らを発見するのは難しい。雨が降り出したら出発する」
渡邉は日の出を見ながらそう言うと仲村も朝日を眺めながら訊く。
「“朝焼けは雨”というやつ?」
「ああ」
「それ、ほんとに当たるのかね?」
「年寄りの言うことは、聴いといて損はない」
1時間後。
遠くの方から小さな風のような音が響いてきて、やがて近づいてきた。密林の木々を、小さな水が叩いている。雨が降ってきたのだ。
「よし、じゃあ、行くぞ」
渡邉がふたりに言い、三人は洞窟を出た。
渡邉が先頭になり、仲村、清水と続く。
清水は、昨日の夜、川の中で見た鱗まみれの子供のような生き物のことを思い出していた。
渡邉はその話を聞いて「ショコイ」というこの近辺に伝わる妖怪のようなものだと、冗談交じりに半信半疑で話してくれた。
日本でいう「河童」のようなものだとは思うが、戦闘機が飛び交い、毒ガスや魚雷で人間が死ぬこの時代に、河童だショコイなどとは、あまりにもばかばかしい。ばかばかしいからこそ、清水は衝撃を受けていた。
戦いが続くと、人は病む。学徒の清水は戦場で二年目を迎え一等兵になったが、それまでの間に、心を病んだ先輩兵たちをたくさん見てきた。身体が傷つき、痛みでおかしくなってしまった人。日々さらされる死の危険でおかしくなってしまった人。
今、食料もなく現状は敗走するしか手立てのない自分たちも、充分に窮地に立たされていると言える。幻覚を見てもおかしくはない。やはり自分も、戦争に犯され初めているのだろうか、清水はそう思った。
そして渡邉も同じように、動き出すラジオや消える盆栽など、よくわからないものを目撃し、自分はおかしくなっているのだろうか、と感じている。だが、渡邉も清水も、その不安の部分は吐露しない。吐き出してしまえば、さらに現実味を帯びてしまう。自分の異常に、気づかないふりをする他なかった。
三人のこの進み具合だと、残り一時間ほどで地図の指し示す「滝」が存在するであろう場所に到着する。
すると、先頭の渡邉が、片手を上げた。仲村と清水は、敵がいたのかと思って、身を低くした。
「地面がぬかるんできた。おそらく、近くに池か沼があるかもしれん。少し遠回りになるかもしれんが、ぬかるみを避けて進む」
三人は方角を変えて進みだしたが、しばらく進んでいくと足元には、さらに灰色の泥が増えてきた。歩を進めるたび、入れ歯のない老婆がぺちゃぺちゃと餅を噛むような音がする。徐々に足をとられ始め、少しずつ歩行速度が落ちてゆく。
「渡邉、これ、どんどん沼に向かって行ってねえか?もう、くるぶし全部埋まってるぜ?」
半刻ほどして仲村が不安げに言うと、渡邉はうつむいて少しだけ考えるそぶりを見せ、構えた歩兵銃を背中に背負った。
「確かに。思ったよりも広い沼地かもしれん。棒を拾って、持って歩いてくれ。もう少し山側の斜面に沿って川を遡上しよう。敵さんやイリエワニよりも怖いのは、塹壕足だからな」
塹壕足というのは、湿った冷たい靴を長時間履くことによって起こる組織障害のひとつ。濡れて冷え、雑菌まみれになり、抵抗力のなくなった足は、水を吸って膨れ、水虫菌に感染し、皮が割れ、激しい痛みを引き起こす。
渡邉のその言葉に、塹壕足になった人を目の当たりにしたことのある仲村と清水は、無言で何度も頷いた。
背丈ほどの棒を三人は持ち、杖のようにして歩く。その棒を前方の土に突き刺しながら、ぬかるみの深さを確かめつつ進んでゆく。
しかし、いっこうにぬかるみはなくならず、雨が降り続いているせいなのか、かえって泥はどんどん柔らかくなって行った。
そして一時間、ぬかるみのなかを進んだ。遠くに川を見ながら遡っているから、まもなく、滝の周辺に着いてもよい時間だったが、一時間を過ぎてもそれらしき景色や地形は見当たらない。それどころか、ぬかるんでいない山の斜面の方へ進んでいたはずなのに、ひたすらに平らな湿地が続いているだけだ。
「なあ、渡邉、なんか、さっきも、ここ、通ってない?なんか、見覚えがあるんだけど……気のせい…?」
仲村が不安げに言うと、後ろの清水も景色を見渡しながら言った。
「たしかに、見覚えがあるのはあるけど、でもほら、今までと違って湿地だから木の種類とかが限られてて、同じ景色に見えるんじゃないか?」
「そうかなぁ…学徒がそう言うなら、そうなのかもなぁ…気のせいかなぁ…でも、もう何時間歩いてるよ…俺たち…そろそろ着いてないとおかしいよな…」
「まあ、それは、たしかにな…おい、渡邉、方角は合ってんだよな?」
渡邉は黙って周囲を見渡した。
たしかに同じような景色を何度も見ているような気がする。
清水が言ったように、木の種類が限られてきたからそう見えるだけかと思った。
しかし、足元を見て愕然とした。
渡邉は、後ろのふたりに申し訳無さそうに声をかけた。
「すまん」
渡邉がそう言って体をずらすと、渡邉の前方に足跡がある。何人かの足跡と、杖をついたような跡がくっきりついている。清水と仲村は敵兵のものかと思ったが、自分たちの背後を振り向き、前の足跡を見て、そして理解した。前方に続いている足跡は、自分たち三人のものだった。
「え!っていうことは、俺たちぐるぐる回ってたってこと?」
「ああ、すまん…山の方へ、向かう」
渡邉は首をかしげながら、足跡より左側へ向けて進み始めた。いつのまにか、泥は膝のあたりまできていて、さきほどよりも進む速度はどんどん落ちている。
「おかしいですね…同じところを回ってるって気づいたのに、また同じところをぐるぐるまわってます」
そう狐が言った。
足跡を避けて歩いてはいるが、結局また円形を描いて歩いている。まるで、片方の触覚を折られた蟻のように。
金長が目をつむり、神経を研ぎ澄ませた。
「なんか、妖術的な空気は感じますね。彼らが自然に迷っているわけではなさそうです」
早太郎は難しい顔をして、同じ場所をぐるぐる回っている三人をにらんでいる。
「昨日のあいつらの仕業か…一体どこにいやがんだ…。おい、あいつらの術を解く方法とかねえのかよ、狐とたぬきはそういうの得意なんじゃねえのか?」
「狐は人に化けたり、空間を変化させたり、幻を見せたりすることが得意ですが、人間を化かしたりするのは“野狐”と呼ばれる狐たちです。そしてわたくしは主にお仕えする身ですので、あんまりそういった経験はありません。ましてや、術を解くなんてことは、ちょっと…」
「わっちらたぬきは、他の動物や、物に化けるのに長けてます。あとは小さな物であれば、それを化けさせることもできますね。
でも狐さんのように、人間に化けたり、幻を見せたりとかっていうのは、専門外です。だから、今彼らが迷っているのは、狐さんたちに似たやりかたなんだと思います」
早太郎は三人を見つめながら呟く。
「たしか、狐に化かされないように…って、弁存がやってたぞ、眉毛に唾を塗ってな」
森がやけに静かだ。
風の音や鳥や動物や無視の鳴き声も聞こえない。雨が降っているが、南国の雨というよりも、北国の霧雨といったような静かな雨音で、森は不思議な静けさに包まれている。
その静かな沼の森のなか、渡邉が立ち止まった。
後ろの二人が疲れた顔で首をかしげる。
「……また同じ場所だ。足跡もあるし、この木はさっきも見た…数を数えて歩いてたんだが、だいたい300秒くらいで、同じ場所に戻って……きてる」
清水が、ありえない、というように声を大きくした。
「この速度で一周300秒?秒速1メートルだとしても円周300メートル。となると、円の直径はおよそ100メートルだから…おれたちは…このあたりを、5分かけて1周して、ずっと歩き続けてるってことになるぞ……」
事の重大さに気づいた仲村が、不安げに渡邉を見上げる。
「おい、どうしたんだよ、渡邉、疲れてるのか?…俺が先頭歩こうか?」
「おかしいな……仲村、すまん、変わってくれ」
仲村と渡邉が前後を交代した。
念の為、渡邉は、目印として木の枝を折り、泥に突き刺した。
しかしまた5分後。
渡邉がつぶやいた。
「仲村、止まれ。また、目印のところに戻ってきてる…さっき俺が刺した目印だ…」
三人が、顔を見合わせたあと、周囲を見渡すと、あたり一面に、自分達が通ったであろう足跡がべたべたと残されていた。
「おい…どういうことだよ…これ…。おい、仲村、次は俺が先頭を歩く、まっすぐ歩いてるかどうか、ちゃんと見ててくれ」
清水が後ろでそう言い、他の二人が頷いた。
清水は、杖で前方を指し示し、遠く前方の木を目印に定め、歩いてゆく。
しばらくすると、清水が少し明るい声で喋り始めた。
「森や砂漠は同じ景色が続くから時間や方角なんかの見当識にすこしづつ誤差が生じてきて、迷ってしまうらしい。
とりあえず今できるのは、できるだけ遠くのひとつの木を目標にして歩いてゆくことだけだ。方角はこの際考えずに、この泥から抜け出せる方向で歩い」
「……清水、おい、足元、見て、みろよ…」
仲村がおそるおそる清水に声をかけた。
清水が足元をみるとそこには、さきほど渡邉が突き刺していた枝があった。
清水は思わず、ひっ と息をのむ。
「…渡邉、清水、すまねえけど、…水…あるか?すまん…俺、もう飲み干しちまって…」
仲村が申し訳無さそうに言うと、清水は青ざめた顔で首を振る。もう飲み干してしまったようだ。渡邉が水筒を仲村に渡す。
「…少しある。ひとくち分だけ残しておいてくれ」
仲村は礼を言い、ひとくちだけ水を飲む。
静かな森に、仲村の喉が鳴る音が不気味なほどに響いた。
川沿いに進むという安心と、数時間で到着するという想定が、出発前の栄養補給や、水の充填を怠らせた。彼らは泥のなかをひたすらに数時間ぐるぐると歩き続け、水はもうない。
川は近くにあることはあるが、どれだけの深さがあるかわからないぬかるみを進むことになる。そしてもし中心部に池のようなものがあるなら、ワニがいる可能性もある。彼らは、ぬかるみやワニを避けつつ、山の斜面沿いに滝へ向かおうとしていたが、未だにその斜面にすら到達できないでいる。座って休憩しようにも、このぬかるみに座ればずぶずぶと胸のあたりまで沈むだろう。
三人は、それぞれ近くの木にもたれ掛かり、周囲をゆっくり見渡しながら、疲れた顔をしてただ息をしている。
「早く抜け出さねえと、今日はここで眠ることになるし、第一こんな泥の上じゃ寝てる間に沈んじゃう…おい…どうするよ…」
仲村が周囲をきょろきょろと不安そうに私ながら渡邉に言う。
清水は腕を組んでなにごとか考えている。
渡邉は、ため息をついてから言った。
「仕方ない。とりあえずやれるだけのことはやろう。お前ら、服を脱げ」
「は?」
「は?」
「服を脱げ」
「なんで?」
「なんで?」
「いいから脱げ!」
「なぜ?」
「なぜ?」
清水と仲村の質問には答えず、渡邉は軍服の上着を脱いだ。
そしてその上着を裏返しにして、また袖を通し始める。
「おいおいおいおいおいこわいこわいこわいこわい、どうした?どうしたの渡邉、ねえ?なに?なになになになになに?こわいこわいこわいこわい」
仲村が自分自身を抱きしめながら、青ざめた顔で言う。
「渡邉、な、なにしてんだ?」
清水も、固まったまま、眼鏡を直し、渡邉を凝視する。道に迷った仲間の兵隊が、服を脱げと命令してきて、そして突然軍服を裏返しに着ようとしているのだ。仲間のうちの一人がおかしな行動をとりはじめると、他の者にも必ず影響を与える。ましてや三人しかいない中で、ベテランのひとりがおかしな行動をとるというのは、他のふたりには恐怖以外のなにものでもなかった。
その二人の恐怖感を充分に理解しながら、裏返しに軍服を着終わった渡邉は、苦々しい顔で返答した。
「こっちに来たとき、高射砲設置や備蓄倉庫設営のために、先住民のやつらに道案内してもらった。でも、森を知り尽くしてる彼らも、森に迷うことがあった。すると先住民全員が、必死で着ているものを裏返しにし始めた。
なんでそんなことするんだって訊くと、
カプレが自分たちを迷わせてる。だから着てるものを裏返しにしなきゃ。
って彼らは答えた。森に住む大男カプレが人間を迷わせるのだと彼らは信じてて、彼らの妖かしを打ち消す方法が服を裏返しに着ることらしい。
俺たち日本人はそれを見て笑ったが、でも、彼らが服を裏返しに着たとたんに目的地に着いた。ついさっきまで、全員で歩きまわり、目を凝らしても見つけられなかった窪地。そこからたった3分ほどの距離だった。
別に先住民たちのまじないを信じてるわけじゃないが、気は持ちようだ。朝焼けは雨、みたいな感じで、とりあえず年寄りの言うことは聞いてみて損はない」
清水と仲村は、納得できない顔つきだったが、三人ともまっすぐ歩いているつもりで同じところを巡っている。裏返しに着ることで科学的な効果があるようには思えないが、疲れたふたりにもそれぐらいしかなすすべがなかった。
軍服を裏返しに着た三人は、頷き合って歩き出した。
徐々に雨脚が強くなっているのか、雨音が強くなり、風が吹いてきた。
ざざっ
先頭を歩く清水の足元で、硬い音がした。
泥ではなく、土や石を踏む音だ。
その音に、三人は反応し、互いに顔を見合わせた。
お互い、半信半疑と嬉しさの混じった絶妙な顔をしていた。
数時間ぶりに、硬い地面を踏みしめると、三人は泥だらけでその場にへたり込んだ。そして、軍服を裏返しに着ている自分たちを見合って、大笑いした。
「先住民のまじないはちゃんと信じるべきだぞ、渡邉」
仲村が冗談めかして言う。
「ああ、肝に命じておくよ」
渡邉が安堵した顔で吐息を漏らして答えた。
「敵襲うううう!敵襲うううう!五時の方向!艦砲射撃!!」
斜面の岩陰から声が聞こえた。
渡邉はとっさに声の方に銃を構え、仲村と清水は五時の方向を振り返った。
渡邉の銃の照準の先には、軍服を着た士官が見えた。敵の士官ではなく、日本人だ。彼は紺色の軍服を着て、古風なサーベルを抜き、彼の言う五時の方向を、刃先で指し示していた。
もしサポートして頂けた暁には、 幸せな酒を買ってあなたの幸せを願って幸せに酒を飲みます。