「つくね小隊、応答せよ、」(41)
仲村が暴れ、水面を叩くと、高く水しぶきがあがる。イリエワニは水中に潜り、仲村に噛み付いたままぐるぐると身体をうねらせている。体を回転させて、咥えた獲物の足を引きちぎるためだ。
仲村は暴れながら水を叩き、時折水中に消え、また浮かび上がってきて、息を吸い、必死の形相でふたりに助けを求めてくる。
ふたりが陸に上がった時に狙撃しようと渡邉は考えていたが、イリエワニの方は待ってはくれず、人間たちが一歩出遅れた。仲村が暴れているこの角度ではワニを狙撃することはもう難しい。かといって自分と同じ大きさのワニと水中で戦える訳がない。渡邉は体が動かずに考えていた。
ざぶんっ!!
褌に眼鏡の清水が歩兵銃の銃剣を握りしめ、水に飛び込んだ。
渡邉はその様子を見て、銃を置き、自分も剣を握って滝壺に飛び込んだ。
水中では、仲村がもがもごと叫ぶ声が聞こえている。
遠くまで見渡せる水中に、銀色の小さな玉が沈んでは昇り、沈んでは昇り、を繰り返している。仲村がいるところまで泳いでゆくと、もう底に足はつかなかった。
必死にもがく仲村と、体をうねらせて仲村の足を引きちぎろうとするワニ。
しかし出血はいっさいなかった。
よく見ると、ワニが噛みついているのは、足ではなく長く垂れた仲村の褌だった。ヒレかなにかに見えたのかもしれない。ワニは褌を噛み締め体をねじるので、仲村の褌の前垂れは、しめ縄のようにきつくねじれている。そうなると、仲村の前を被っている部分は凄まじい圧力を伴ってモノを圧縮するので、仲村は死にそうな顔をしながら内股になり、褌を脱ごうと必死になっている。
清水は深く潜水し、川底で大きな石を抱いた。
そのまま川底を這って進むようにしながら、ぐねぐねとうねるイリエワニの真下に立つ。
渡邉は仲村の褌を切ろうと近づいたが、仲村が必死に暴れているので、掴まれればお互いに溺れてしまうと思い、結局なにもできず、ただ、離れて立ち泳ぎをしているしかなかった。
清水はイリエワニの真下に来ると、勢いよく地面を蹴り、小猿が母親を抱き締めるように全身でワニに抱きついた。
ワニが顎を開けないように顔の辺りを両手で抱き締め、腹の辺りを足で絞る。
すると、ワニは魚が陸上で跳ねるような動きに変わった。清水は必死でワニに抱きつきながら、逆手に握った銃剣をワニの喉元に当て、一直線に引いた。
しゅこっ
ラムネの瓶を覗きこんだような、涼しげで清涼な水中。
その水中でワニの首から濁った朱色が溢れだし、ワニは顎を緩める。仲村は、どうにか緩んだ褌を脱ぎ捨て、水面に上がって大きく息を吸い、叫ぶ。
「りゅ、流木が褌に絡み付いてきた!!!死にかけた!しゃ!しゃれにならん!!」
仲村は、水流で流されてきた流木が回転して、褌を巻き取り、水中に引きずり込まれたと思っていたようだ。
そんな仲村の無事を見届けてから、渡邉は水中にまた潜り、清水とワニへ近づいていく。赤い煙のようになっている血液の向こう側で、清水がぎゅっと目をつむり、ワニを抱き締め、剣を握りしめている。
暴れまわっていたワニは徐々に動きが弱くなってゆき、小さくぴくぴくぴくと痙攣し、やがて力が抜け、流木のように水中を漂い始めた。
それなのに清水は一向にワニを離す素振りをみせない。ただきつく目をつむり、ワニにしがみついたままだ。
渡邉は水中で、“おい!もう死んでるぞ!”と叫んだが、もぐぼぐ気泡が出るばかりで、清水に声は届かない。
もしかすると、清水が気を失っているのかもしれない。そう思った渡邉は、自分の褌の尻のところに銃剣を挟み、さらに潜った。ワニは口を開け、うつろな目をして、ぴぴぴと痙攣している。
一方、やっと“流木”から開放された仲村は、水上で息を整え、水中に消えた二人を確認するために、大きく息を吸ってまた潜る。
水中は、赤い煙のようなもので満たされていて、そしてその煙の向こうで清水が流木を抱きしめている。
“なんで流木を抱きしめてんだ…学徒…”
仲村は水中で清水を凝視しながら、その不思議な光景に首をかしげた。
やがて、赤い煙のようなものが水の流れにゆっくりと消えてゆくと、清水が抱きしめているものの正体に仲村は気づき、慌てて水上に顔を出して叫んだ。
「ぶばぶぶばあ!!!べんっぜん流木じゃないじゃん!!わにぶゃん!」
渡邉は清水の頬を水中で叩く。
けれども反応はない。引き剥がそうと手や足を解こうとすると、彼の手足は硬直してしまっていた。仕方なく渡邉は、ワニを掴み、水中を歩き、陸へ清水を連れていくことにした。そこへ仲村が合流し、おそるおそるワニを掴み、清水を陸にあげるのを手伝った。
陸に清水とワニを引きずり出すと、渡邉は名前を呼びながら、清水の頬を何度も叩いた。彼の眼鏡をはずし、耳元で大声を出して呼びかける。
仲村は、清水の固まった両手をやっとのことでワニから引き剥がした。銃剣を外そうとしたが、固く握られていて、はずれない。
ワニの濃い血液が清水の身体にべっとりと付着し、生臭く鉄臭い臭いが仲村の鼻に立ち上ってくる。
渡邉は清水を仰向けにして、心臓に耳をあてた。鼓動はある。しかし、口元に耳を近づけたが、息は感じられない。渡邉は清水の鼻をつまみ、即座に自分の息を吹き込んだ。清水の胸が膨れ、そして突然激しく咳き込んだ。
「おい、清水、だいじょ」
安堵した渡邉がそう声をかけると、顔の直前で しちゅんっ と風を切る音がした。
意識を取り戻した清水が、銃剣を振ったのだ。
そして彼は何事か絶叫し、血走った目で渡邉にもう一度銃剣を振った。それを渡邉は寸前でかわし、叫ぶ。
「おい!清水!俺だ!渡邉だ!」
その様子を見ていた仲村も、同じように叫んだ。
「学徒!俺たちだ!学徒!やめろ!」
慌てて立ち上がった清水は、眼鏡のない目を細め、渡邉と仲村を凝視し、
「……ワニは?夢?」
と、荒い息で尋ねた。
仲村はその場にへたり込み、
「そ、それ、見てみろよ…夢じゃねえよ」
と、力なく言った。
「おい、足元、見てみろ」
渡邉が付け加えてそう言うと、清水は目を細めながら足元を注視する。
そこには自分より大きなイリエワニが、血にまみれて水に浮いていた。
状況が理解できた清水はその場に崩れた。
がちゃぽむんっ
清水の銃剣が水中に落ちる。
三人とも、肩で息をしている。
鳥が鳴いて、風が吹く。
もし、血まみれのワニや、銃剣がなければ、同じ会社の三人が夏の田舎の清流に遊びに来て、ゆったりと涼んでいるように見えたかもしれない。
しばらく、息を整えていた清水が、やがて小さくつぶやいた。
「渡邉…」
「…なんだ」
「ワニって…食えるんだよな」
「俺がもっとはやく狙撃できれば、仲村の褌も穴だらけにならずに済んだのに、すまんな」
渡邉が仲村のボロボロの褌を見ながら冗談めかして言うと、仲村が必死の形相でまくしたてた。
「いや、流木がワニだと分かったときの恐怖は、もう日本語では言い表すことができませんわ」
疲れ切った顔の清水は、ぼんやりとしながら滝壺の浅瀬を見つめている。
「どうしたんだよ、学徒。気分悪いのか?」
仲村が心配して清水に声をかけると、清水は黙って自分の見つめている先を指さした。滝壺の浅瀬の草むらの中に、数十センチの生き物が数匹うごめいている。
ぎゅぴー
くぴー
ちー
きゅぴー
小さなその生き物は、イリエワニの生まれたばかりの子供だった。
「こいつ、子供を守ろうとしてたのかな…」
清水が、血だらけのイリエワニをぼんやりと見つめながらつぶやいた。
きゅぴー
ちゅいー
ちーー
くぷーー
ワニの子どもたちの母を呼ぶ声が、滝壺にこだましている。
三人は、母ワニを銃剣でさばく。腹の鱗の隙間から刃を通し、首から尻尾のところまで切り込みをいれる。少しめくれた皮の隙間に銃剣を小刻みに動かして、皮と肉を切り離す。
そうやって皮をすべて剥ぎ、首を切り落とし、内蔵を掻き出し、手足を切り落とした。三人で作業をすると、一時間ほどで、ワニに似た形をした肉が出現した。
肉の塊が大きすぎるから、小さな細切れにし、周囲の小枝をかき集め、串に肉を通してゆく。日が沈むと、小さく火を焚き、そこで串肉を焼き、黙って食った。大量のワニの肉が余ったけれど、冷蔵庫などはないから、水底に遺骸を沈め、大きな石をいくつか置いて、保冷庫代わりにした。
「ひやひやしたんですけど…今日一日…」
金長が大きな腹を広げて仰向けになりながらそうこぼした。
狐がすんすんと何度も頷く。
「助かってよかったですね、仲村さん」
「あのワニとかいうの、うまそうだったな…」
早太郎がうつ伏せになりながらつぶやく。
「あ、それにしても、狐さん、人に化けるのうまかったですね、さすがです」
金長が起き上がりながら言う。
「いえいえ。まあ、あれくらいは、序の口ですよ」
「でもよ、狐、お前、あの軍服、だいぶ昔のもんじゃねえか?」
「え?!そ、そうでしたか?」
「ああ。日露戦争の頃、ああいう服をきた兵隊が、たくさんうちの寺に参拝に来てたぞ」
「あ、そうでしたか…とっさに化けたので、時代考証もなしに行動してしまいましたね…序の口だなんて、恥ずかしい…」
「でもよ、あんまり姿を見せすぎると、いつかボロが出るぜ。金長なんて18回ぐらい変なもんに化けて尻尾掴まれてんだか」
「18回は言い過ぎですよね?まだ2回ですよ?2回!」
「さっきも提灯に化けるとか言ってたじゃねえか。また怪しまれて冷や汗垂らすのはお前だぞ、金長」
金長と早太郎が言い争いを始めたので、狐がさり気なく会話を中断させる。
「そうでしたか、明治の軍服で化けてしまってましたか…」
「で、でも、あそこで狐さんがとっさに彼らを誘導してくれたから、三人とも無事なわけだから!成功ですよ!」
金長が援護すると、早太郎が少し笑った。
「お前があの時提灯になってたら、一体どうなってたことやら…」
「んもおおおお!!」
渡邉たちは河原の小石の上に寝転び、夜空を見上げながら眠りについたが、狐たち三匹は眠らず、三人を見守っている。
そんななか、
「おい、お出ましだぞ」
突然早太郎が立ち上がって言った。
狐と金長が耳を立てると、暗闇の中からなにかが姿を表した。
下半身がなく、背中にコウモリの羽根が生えたマナナンガルと、
犬のような姿で異様に牙が大きく尻尾が刃物のようなスィグビンだった。
「今日はあのちっこいじいさんたちはいねえのか?おまえらだけか?」
早太郎が問いかける。
マナナンガルが4匹に、スィグビンが5匹。しかし誰も早太郎の問いには答えなかった。
「おい、なんとか言えよ」
早太郎がさらに声をかけても、彼らは何も答えなかった。
「そう言えば、昨日はあのちいさなおじいさん、えっと、ドゥエンディしか言葉を使っていませんでした。この島で言葉を扱えるのは彼だけなのかもしれませんよ」
狐が早太郎にそう言うと、早太郎はにやりと笑う。
「言葉使えねえやつを寄越すってことは、もう対話するつもりがないってことだろ?こいつらが今日みたいに、あいつらを殺そうとすんなら、俺はこいつらに譲歩するつもりはねえぜ?」
すんっ
突然早太郎の姿が消えて、いつのまにか、コウモリ女のマナナンガルの背後にいた。
「おい。喋れるならいまのうちに喋っとけよ。俺はそっちの二匹みたいに、礼儀正しくも優しくもねえぜ?」
マナナンガルたちは羽根をばたつかせ、悲鳴をあげながら慌てて早太郎から離れた。スィグビンは、牙をむき出しにして、低くうなりながら、早太郎を取り囲む。
狐と金長が、動こうとすると、マナナンガルたちが二匹の前に舞い降りた。
「えっと、確認なんですけど、狐さんって、化ける以外には、なにか攻撃系の力ってあるんですか?」
金長が訊ねる。
「えっと、狐火くらいでしょうか」
「狐火?というと…あの、野山とかで狐が吹く、あの狐火ですか?」
「はい。そうです」
「でもあれって、たしか、とっても小さいですよね?」
「はい。野狐たちの狐火はとても小さいですよ」
「それでは、できるだけわっちの後ろにいるようにしてください。人に化けるのは得意じゃないですが、化けて戦うのは、わっちの本分なので」
金長が狐の前に立ちながら言うと、狐は金長に頭を下げながら、なぜか一歩前に踏み出た。金長が不思議そうな顔をする。
「野狐たちの火は、小さいですよ。でも、わたくしは使いの狐です。彼らとは、ほんの少し、役割が違うんです」
満月色の狐の身体がぼんやりと光りだして、尻尾が5本に分かれた。体の大きさも早太郎と同じくらい大きくなっている。
そして右の前足で、とんっ と地面を強く踏み、夜空を仰ぐと、
しゅこおおおおおおおおおお!!!
という音とともに、金色の大きな炎を勢いよく吹き出した。金色の粉が周囲に飛び散る。
マナナンガルも、スィグビンも、早太郎も金長も、その炎の大きさに圧倒され、固まった。ここにいる全員を包めるほどの大きさの炎だったからだ。
狐は金長を振り向いて、にこりと笑った。
「だいたいこんな感じです」
金長は、あっけにとられて、
「あ、は、はい、すごいです…ね」
とつぶやいた。
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