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発達障害をカミングアウトして感じた「成人」という概念に対しての葛藤と憂鬱

今年も成人の日が終わって、各地でいろいろなニュースを耳にしたりする。
成人の日には尾木直樹先生と春名風花さんが論壇したNHKらじらーなどを聴いて18歳成人の問題や、それに係る社会への諸問題やそれに派生する少年法などが議論されていた番組があった。

発達障害と「成人」だが、私の場合は精神年齢という言葉に敏感で、そこからはたして成人と言えるのだろうか、自立できたのだろうかという事を感じることがあり、未成年の頃はそれとは逆に「心は一部大人になっている」と感じることもあった。私の発達は、いわゆる「定形の発達」とは大きく離れており部門による凹凸が激しい。精神年齢に関しても一部のところにハイライトを絞ろうとすると早熟だったり遅れていたりするように感じてしまう。

「心の問題」「精神年齢」と「実年齢」とのギャップがもたらした問題

まず、大辞泉で「成人」という単語を調べてみる。


①心身が発達して一人前になった人。(中略)現在一般的には満20歳以上の者をいう。
②子供が成長して大人になること。


2020年現在、①に関しては18歳以上を指すようにという法律の改正などが議論されているが、そうでなくても現在は説明から「心身が発達して」と「実年齢」とのギャップが生まれたときに色んな食い違いが生まれてしまうことがわかってしまった。

私の場合は「発達障害」なのだがこれは個々のステータスが著しく偏っていたりする特徴などがある。特に私だったら部門ごとの「心の成長」に凹凸があることを自認しており、まだ意思疎通などのコミュニケーションなど実社会で対人的な反応が大人になったのか、と言われると正直自信がない。
他に、「知的障害」が知能の発達が滞ってしまう障害と定義されるならば、成人の説明にある「心身の発達」にかかわる障害と難なのであるから発達障害と同じように成人という概念の残酷さを感じてしまう。
逆に精神的に早熟であり責任感が強く自立が早く意識の高い子どもたちのように「精神年齢」がすでに成人になっている人たちだっている事は間違いない。

このように「成人」という概念と個々の「心の発達」による食い違いが社会や各法律や条例との障壁を生んでしまう可能性との問題は密接に関わっていると実感してしまった。

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