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神様のカルテと遺言書

ずっと心の中にあるものが、
この季節になると、
春の雪解けかのように、鮮明に蘇る。

82歳の彼の傍らには、
一枚の塗り絵が置かれていた。

それは、もう何年も前の話。

あの時、悲しみに暮れた自分の心に
手を差し伸べるように、

同僚は「そばにいてやれ」と言った。


Oさんは末期の胃ガンで、
もう長いこと病院のベッドの上が
彼の生活の場だった。

持続の皮下注射で
膨れた腹を気にしながら、

その夜、彼は塗り絵をしていた。

いつ亡くなってもおかしくない状態だったから、自分はその日も病院に泊まった。

Oさんのそばに、いようと思った。

病室に行くと、消灯時間を過ぎても、
彼は塗り絵をしていた。

「塗り絵をしている間だけ、生きてる感じがするんだよね。俺ね、生きていたいから。」

自分の心配をよそに、
Oさんは続けて言った。

「この中で好きな絵を選んで。先生に塗ってあげるから。」
と、力ない言葉を放つ。


数枚ある塗り絵用の真っ白な画用紙の中から

「これかな」
と、自分が選んだ塗り絵は、
大好きな八ヶ岳の塗り絵だった。


そしてOさんに、
そこに名前を書いてほしいと頼まれた。

言うとおりに名前を書いて、

「もう時間も遅いし、今夜はもう休んで下さい。」
と話す自分に対して、

「もう少しだけ、塗ったら寝るから。」
と辛そうに言う。

そんなOさんを見つめ、
「また明日ね。おやすみ。」
と、病室を後にした。


翌朝Oさんの部屋に行くと、

その瞬間、
起きて色鉛筆を右手に持ったまま、
呼吸が止まった。

Oさんも御家族も、
延命処置を望んでいなかった。


Oさんの傍らには、
塗りかけの八ヶ岳が置かれていた。

完成間近だった。

亡くなる直前まで、
自分のために塗り絵をしてくれていたんだ。

Oさんの傍から
離れることができなかった。

その塗り絵には、
病と闘い抜いた彼の力ない字で、

「字は、その人を表す!」

と書かれていた。

だから自分は『字』を大切にしている。

今でも、あの時Oさんが塗ってくれた遺言書は
職場のロッカーの中で見守ってくれている。

神様のカルテには、
Oさんの余命は書かれていなかった。
でもOさんはしっかりとその生きた証を残してくれた。

それはOさんが残した、形ある遺言書。

『生きることは、諦めないこと』

だと。

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