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コーヒー日記⑮;しがない理学療法士のなんちゃってリハビリ哲学part②


前回のおさらい

前回、國分功一郎著 『中動態の世界』に記された、哲学者スピノザに関する一節から、なんちゃって哲学を試みた。

前回の内容を一言で述べれば、以下の一節を受けて、一般的にリハビリテーションは患者さん(利用者さん)活動能力を高める営みであるが、その最終目標を対象者の「喜び」とするならば、「思考能力」を高める工夫もリハビリテーション内で試みなくてはならないのではないか、ということだ。

われわれの「活動能力 potentia agendi」や「思考能力 potentia cogitandi」を高める感情をスピノザは「喜び laetitia」と呼び、それらを低める感情を「悲しみ tristitia」と呼んでいる。(中略)いかなる感情もこのどちらかに分類できるというのがスピノザの考えである。

國分功一郎著 『中動態の世界』 p250項


さて、今回はこの考えを別の視点からより詳細に述べていきたい。
以下の考えはまだ、わたしの考えがまとまっていないところもあるため、今後も随時追加・修正していくつもりであることをご容赦願いたい。

『構築論的理学療法』という提案

ここからは前回よりも少し詳しく(システマティックに)述べていきたいと思うので、リハビリテーション全体ではなく、わたしの職業である理学療法に着目して話を進めたい。
といっても、話の内容的にどうしても(前回よりは輪郭がはっきりしているとはいえ)抽象的になるため、医療全体に通ずる話でもあると思っている。

キーワードは、『構築論』と『実在論』である。

まずはこの2つの概念の定義について、宮坂道夫著『対話と承認のケア ナラティブが生み出す世界』から引用する。

(…)実在論と構築論に裏づけられたヘルスケアは、個々の患者の健康上の問題を解決するという目的そのものは共有しつつも、その方法論は異にする。
実在論的ヘルスケアは、今日のエビデンス・ベイスト・メディスン(EBM)そのものと言えるかもしれない。ケア者は知識体系のなかで、目の前にいる患者をとらえ、分析し、診断と治療を行う。その際に、患者からの情報収集、検査、医学文献などが主な情報源となる。
(…)構築論的ヘルスケアとは、本書で「ナラティヴ・アプローチ」と呼んでいる、ヘルスケアのもう一つのあり方である。ケア者は患者を一個の知識体系と見なし、その視界のなかで問題をとらえなければならない。(…)主な情報源となるのは、患者のナラティヴと、他の立場の人、たとえば患者の家族や、他のケア者などのナラティヴである。
ここでは、文字通りのナラティヴすなわち会話や筆記による「語り」のほかに、「表象」すなわち患者の経験を表し、反映しているもの ー 表情や顔色、しぐさ、習慣、行動なども、情報源となり得る。

p98~100項
表:二つの疾病観に基づくヘルスケア p99項より抜粋

また同書にて、ヘルスケアの3つの関心領域として、「身体機能」「生活機能」「人生史」が挙げられている。「人生史」といっても今一つピンとこないと思うので、その定義を引用する。

人生史とは、誕生から死に至るまでの患者の人生の歴史であり、現在の時点から眺めると、これまで生きてきた「過去」と、これからの「未来」という二つの方向性をもっている。(…)この次元には「機能」という味気ない言葉は似つかわしくなく、たとえば「影響」とか「満足」といった表現のほうがよいかもしれない。腎臓に関連した問題が人生史の次元に影響をもたらすのは、「透析を受けるために通院することで、家族に相当な負担をかけるし、いっそのこと、透析など受けないほうがよいのではないか」と思い悩むようなケースである。

p102項

上記の定義をみると、前回わたしが投稿した記事の内容は、「構築論的」なのかもしれない。
ただ、宮坂氏の書籍でもたびたび強調されているが、わたしも「実在論的」な考えを否定するつもりはない。
わたしが大切だと思っていることは、現在、理学療法士の世界では(その他のリハビリテーション業界もきっとそうだが)、実在論に立脚した治療体系「のみ」が存在していると思う。つまり、構築論に立脚した治療体系は、少なくとも理学療法の領域においては、まだ確立されていないのではないか、ということだ。

もちろん、実在論には「エビデンス」という強力な武器があるわけで、その力によって体系化が非常にしやすい。
一方で構築論は、より個別性が強調されるものであるから、エビデンスとして示すことは難しく、そのためどうしても実在論の思考に慣れた方からすると納得がしにくいものだったり、治療体系が全体としてボヤっとしたりしてしまう。
それでも、たとえボヤっとしていても、構築論的な理学療法の「なんとなくの形」を示していくことは、重要なことに思えてならない。
それを示すことによって、実在論に立脚した理学療法の限界を提示することができ、二項対立ではなく、両者を適切に組み合わせた理学療法を提供することも可能であると考える。
なので、今回はひとまず、構築論的な理学療法の「なんとなくの形」を示してみたいと思う。
ポイントは、以下の図で示すように、「△」から「▽」への転換である。

「△」から「▽」への転換

まず、以下の図をご覧いただきたい。

図:「△」から「▽」への転換

情報の価値について、実在論的理学療法では、身体機能>生活機能>人生史の順に価値が高く、構築論的理学療法では、人生史>生活機能>身体機能の順に高くなる。
情報の複雑さについては、実在論的理学療法・構築論的理学療法の双方で違いはなく、横幅が広い順、つまり、人生史>生活機能>身体機能の順で複雑になる。

この図で両者を比較したときに、最も重要なことは、問題点の抽出の方法が大きく異なる、ということだ。

まず、3つの関心領域である、「身体機能」「生活機能」「人生史」について、それぞれを理学療法評価に当てはめてみよう。

身体機能;筋力、関節可動域、歩行検査など
生活機能;FIM・BIなどADLに関する各種評価バッテリーなど
人生史;ホープ・ニーズの聴取?

そもそも人生史は「評価」するために語っていただくわけではないから、当然、評価バッテリーなどは存在しないが、理学療法において無理やり当てはめるのではあればホープ・ニーズとなるだろうか。
重要なことは、上記などの検査を通して抽出された問題点は、目の前の患者・利用者にとって「本当の問題点」なのだろうか、ということだ。
つまり、わたしを含めた多くの理学療法士は、きっと「身体機能」「生活機能」の評価結果を中心にして問題点を抽出して、申し訳程度にホープ・ニーズを聞くようなものだが、それでよいのだろうか?

世界の構築論的ヘルスケアを牽引している一人といえるリタ・シャロンは、興味深い症例を紹介しているため以下に引用する。

彼女は、長年にわたって診察してきた患者から、あるとき突然に身の上話を聞かされた。その人は八九歳のアフリカ系の女性で、高血圧、乳癌、脊柱管狭窄、および不眠と不安に苦しんでいた。そうした長年の不調の発端になったのが、子どものころの落馬事故だという話をこれまで何度か聞かされてきた。ところが、二十年以上も診察してきたある日、本当に経験したのは落馬事故ではなく、近隣の白人少年からのレイプだったと語ったのだった。
こうしたいくつかの経験から、シャロンは「病気というものは直線的な旅ではない。だから、病者をケアする者としての私たちは、彼らの役に立ちたいと思うならば、遠回りの旅にも備えができていなければならない」と考えるようになる。

p136項

こうした「本当の問題点」は、人生史を語っていただかない限り決して気づくことができない。
理学療法に関連が深い「疼痛」の原因を例に考えてみても、いくら「身体機能」の評価や疼痛評価をしてもはっきりとして原因が分からなかったが、数日後、ふと患者が恥ずかしそうに「この前実は転んじゃったんだよね」と語っていただけて原因がはっきりしたということが、わたしの経験上も何度かあった(人生史とまではいえないかもしれないが)。
シャロンの症例に話を戻すと、「本当の問題点」を抽出するのに20年もの年月を要した。かなり骨の折れる作業だ。でもだからこそ、各患者・利用者と関わっている間は常に、その方が語る人生史を聞き逃してはならない。
大事なことは、「身体機能」「生活機能」に関する評価はもちろん行って、その評価結果に基づいて治療をするには変わりないのだけれど、そのうえで、人生史に重点を置き続けるということ。
それが、「△」から「▽」への転換、つまり「実在論的理学療法」から「構築論的理学療法」への転換である。


本記事では、「構築論的理学療法という提案」として、その骨子になる(と現状は思っている)内容を大まかに述べた。
ひとまず、今回はここまでとする(だいぶ長くなってきたので)。
今後、随時内容を更新していき、理学療法の発展の一助にしていければ幸いである。


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