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『民俗小説 異教徒』- 水と風 章 - 後半 概要

第一章 火

第二章 土

第三章 水と風 前半

はこちらから

第三章 水と風 後半

何日か後、北東から二度目の台風がやって来た。その兆しとして、近隣の択捉島と色丹島が大気の遠域にくっきりと見えた。漁師たちは十分な準備ができていなかった。生き物は全て、海や陸の奥で息を潜め、大洋は積み重なって唸り、白い塊となって大気中を走った。漁師達はバラックで二十四時間待機したが、チャチャの仮泊場の仲間とは無線通信が途絶えてしまった。三日目の朝、まだ風の強い中、ベッソーノフは網を確かめに外に出た。二時間後には疲弊してバラックに戻り、仲間と一緒に腰かけて紅茶を飲んだ。ヴァレーラが昼食の調理を失敗した。腐ったマカロニを、新しく作ったものと混ぜてしまったのだ。皆は面倒くさそうにパンと肉の缶詰を食べたが、ヴァレーラはおいしいと言ってマカロニを食べ、嫌がるヴィーチャにもしつこく勧めた。ヴィーチャはマカロニの鉢をつかみ、ヴァレーラの腹やズボンに流し込んだ。ヴァレーラが身を起こすと、ヴィーチャの手にはナイフが握られていた。ヴィーチャの顔は、冷静にも、鈍っているようにも見えたが、怯えてはいなかった。この時、ヴァレーラの腹には以前ナイフで切られた跡があることを皆が思い出した。ベッソーノフが怒って机を叩くと、ヴァレーラは席につき、一人でマカロニを食べ始めた。ヴィーチャはナイフをテーブルに打ち付け、自分の寝床に倒れた。ベッソーノフはまずヴィーチャを叱り、ヴァレーラにも、洗い物のバケツがたまっていると叫んで怒った。そして自らこのバケツをつかみ、ドアを開けると、バラックに風と雨が入り込み、バケツの中身が散らばった。台風の後遺症と大洋のいたずらで、漁網は使い物にならなくなっていた。風が止んで一日経つと、チャチャの漁場からミーシャ・ナユモフが岸を伝ってやって来た。ミーシャは口いっぱいに夕食を取りながら、漁船の船底に穴が開いたこと、エンジンが壊れたこと、ウドドフが打撲をしてびっこを引いていること、またそれらがいかにして起きたかを話した。そして疲労に襲われ、煙草を吸う気力もなく、寝床へ倒れこんだ。ヴァレーラが長靴を脱がせ、布団にくるんでやった。翌朝、ベッソーノフは自分の漁船でミーシャを送り、ヴィーチャは漁のオーナーのアーノルドのところへ替えのエンジンと食料を頼みに行った。漁師達は蒸し暑い中、予備の網を準備した。台風の後には南のモンスーンが再来し、空は明るく平和に輝いた。まるで台風などなかったかのように、全てが人々の上を暖かく流れ、星は輝き、海はリズミカルに音を立てた。

ベッソーノフは夕食後、眠ることができず、静かな岸辺に煙草を吸いに出た。大洋は、動きと光に満ちていた。暖流のクロシオで産卵を終えたサンマが群をなし、島々に沿って、クリルの寒流に押し寄せていた。集魚灯をつけてサンマ漁をする何十もの小さな船は、風来坊が宇宙の舞踏会へやってきたかのようだった。魚はうっとりとして我を忘れ、集魚灯の下に何トンもの塊となって集まった。漁師達はこの大群を引き上げ、運が良ければ日の出前に、魚が残酷にも騙されていることに気が付かぬように引き出すことができる。ベッソーノフは丸太に腰かけ、端から端まで静かになった大洋を見た。誰がどのようにして、大洋だけはその中身を空にせずにおいたのか。多角形をした太平洋は、そこに浮かぶ漁業大国の船や網でいっぱいだ。ベーリング海では、神はタラの群か十、十五トンのニシンを俗物化するだろう。その南のカムチャッカでは、朝鮮の密漁者がカニの網の列を一掃した。かつては動いていたロシアの国境警備隊も、今は燃料を節約し、追うことはない。朝が輝けば、朝鮮人たちも次の夜に備えて、荷下ろしに公海へと出て行く。もっと南西、肥沃なオホーツク海では、はるか遠くから来たポーランド人らが船を走らせている。さらに南下して、サハリン南西部やクリル、日本海では、大陸棚でのホタテ漁、日本や台湾のスクーナーによる夜のイカ釣りだ。日本をまたいで南に千マイル先、南鳥島の方では、漁師たちは長い縄でマグロを獲る。頭を上げずに何千ものフックに餌を通すのは、地球上で日本人だけに可能な作業かもしれない。一方、大陸の近く、上海からそう遠くない海では、岸に沿って鯖が産卵する。赤道やその向こうを想像するなら、日本、韓国、中国、フィリピン、インドネシアの漁師や真珠を取る者がいる。オーストラリア人やニュージーランド人も、鯖とマグロの群れを探して大洋を動き回る。大洋の東の方では、まだ昨日の日付が生きている。チリの引き網船はセグロウミヘビの漁を終えたのだろう。その北、赤道近くのペルー寒流の出口では、アンチョビ漁をしている。更に北へ行くと、アラスカ湾のアメリカ人とカナダ人が、河口からあまり遠くないオヒョウに縄を置き、紅鮭や、キングサーモンを獲っている。アメリカ人はこれを「皇帝の鮭」、日本人は「鮭の首長」と呼ぶ。カリフォルニア湾では、メキシコ人がカレイを獲っている。サンフランシスコの二百マイル西、メキシコのトロール船では、深海に住むスズキの背中の毒に注意しながら、腸抜きが行われている。スズキは急な圧力低下で膨らみ、目をむき出している。神はなぜ、悲惨な海底で一生を過ごすスズキに美しい色を与えたのか。大洋には嵐もなく、ベッソーノフの前に横たわっていた。大洋はその居候に、静寂の夜を与えた。明日は再びどこか『じめじめした』角で風が吹き、長い白波が伸びるのだ。ミクロネシアのどこかで台風の渦が吹き始め、大洋全体を散らして進む。台風の中での船上の火事は特におぞましい。暴風雨を通して必死にラッパを吹く者もいるが、もはやその音は『SOS』の意味も持たない。ただ一人の水兵だけが、死を免れようともがく他の者とは異なり、燃え上がる船で正しい行動に出る。彼はこの荒れ狂う宇宙に叫び、漁民の神に赦しと救済を乞うのだ。ヤコブとゼヴェデエフのジョアン、アンドレイ、シモン・ピョートルの兄弟、そしてシモン・ピョートル自身も漁民だった。彼はただの小さなアンチョビ、臆病なヤドカリであり、神の前では蚤のような存在だ。それでも彼は、漁師なのだ。海上の夜の明かりを観察しながら、ベッソーノフは考えた。「これは他ならぬ戦争ではないか?そうでないなら、どうしてこれほどまでに汗や血が流れ、犠牲が出るのか?」彼は知りたくも信じたくもなかった。数え切れぬ大量の人々、魚の、海の獣たちの死は、ただ、どこか煙の立つ台所で、主婦が切った魚をフライパンに投げ入れるためだけにある。魚の載ったフライパンは、壮大な大洋の悲劇の礼賛ではないか?

漁船は正午までに帰って来て、流されたのか、距離が測れなかったのか、全速力で岸に乗り上げた。酔っぱらって赤い顔をしたミーシャが、漁船から降りてよろけた。スヴェジェンツェフは怒らないように、とベッソーノフをなだめた。確かに、彼らは酔っぱらっているが、これは誰にでもあることだ。彼らは頑丈なエンジンを持って来る任務を果たした。船底ではヴィーチャが横になっており、ターニャ・スィソエヴァが彼をゆすっていた。彼女は、酔った笑顔でベッソーノフに挨拶をした。ベッソーノフは漁場に女性を連れてきたことに腹を立て、ヴィーチャとターニャを家に入れないよう言った。翌朝ベッソーノフは、ヴィーチャとミーシャに加え、年長のスヴェジェンツェフをチャチャの仮泊場に送った。ターニャには、次に来る船で帰るよう、怒らずに言った。昼食までに、交代のウドドフとジョーラが漁船でやって来た。夕食には、ターニャがカラフトマスのカツレツとつぶしたジャガイモのピュレをふるまった。お茶のお伴には待ちに待った、イクラと肉の缶詰を添えたブリヌイが出た。その翌朝から、ヴァレーラは料理をしなくても良くなった。三日間帰る機会はなく、ターニャはいつのまにか漁師の空間に馴染み始めた。バラックには生きた家の香りがし、厚い布団が現れた。ベッソーノフはターニャがいることを良く思っていなかった。しかしある時、彼はふと手鏡を取り、自分のことを気に留めた。顔は風化し苔が生えたようで、長いこと修道院集落に住んでいたかのように野生化し、体は悪臭がした。漁期の始めから一度も洗濯をしておらず、服が固くなっていた。そして彼自身も硬くなり、猫背になっていた。夕方、彼は川でシーツと自分の体を洗った。この後、彼は興奮して自問した。「何のために?」翌日、ベッソーノフは、ターニャの修道女風のスカーフの中に、明るくて滑らかな顔を見た。目はまつ毛が濃く、深くて暗い。体はがっしりとしている。ベッソーノフはほとんど冗談で、我慢できずに言った。「何だい、いつもスカーフを巻いて、おばあさんみたいだな。」するとターニャは当惑してスカーフを取り、海水でバシバシになった髪を肩の上で乾かした。彼は再び仕事に戻った。なぜか最近、彼の中に陽気な何かが生まれ、誰にも注意を払わず歌った。そして気が付いた。これは他の三人も同じで、よく話すようになった。女性の存在は彼らにとって望ましく、快適なものとなり、彼らはもはや亭主のような声で、ターニャに夕食のメニューを尋ねた。しかし、常に女性のことを考えながら生活するのは、四人の男性にとってどんどん難しくなるだろうという心配があった。深刻な段階になれば、いかなる理性も役にたたなくなってしまう。半日後、漁場にセーナー船がやって来た。ベッソーノフはターニャをこの船で返そうと約束したが、ど忘れし、思い出した時には、船は去ってしまった。この瞬間から、彼は無鉄砲な行為に身を任せた。夕方、ヴァレーラは自分の落とした魚が、近くの峡谷の年老いた熊に奪われた話をした。ベッソーノフはクマに夕食をやったのか、と笑い出し、ジョーラと二人で銃を持って外に出た。クマの足跡は丘の方に続いており、漁師たちは背の高い草に分け入って、静寂の中に立っていた。熊はもう近くにはいないと分かり、彼らはバラックに戻った。夜中、ベッソーノフは覚醒したように目を開き、その後に意識が戻った。目は既に窓の明るい月の半円を、くっきりと見ていた。何かが外で木をひっかくような音を立てた。ベッソーノフはネズミかと思い、立ち上がって窓の外を見たが、ただ黄色のそそがれた岸、月明かりに輝く青いミルクのような海が、キラキラと鱗を輝かせる様子が見えるだけだった。ベッソーノフは静かに銃に弾を入れ、忍び足でドアの方へ行った。鍵はかかっておらず、音を立てずに出て行った。中庭には誰もいなかった。聞き耳を立てると、岸の方から何か聞こえた気がした。そして確かに一瞬、彼は月明かりに照らされた人影を見た。彼が岸に寄って行くと、その人は水に入っていき、静かにまっすぐ泳いでいった。ベッソーノフは、これが誰なのか分かっていた。彼は周りの夜と暗い海を意味づけることの不可能性、そしてターニャの豪快さと我慢に驚いた。島のこちら側の、北の潮流はいつも冷たかったのだ。五分ほどすると、ターニャは岸の方へ泳いで来た。ベッソーノフは膝に肘をついてじっと腰かけ、裸の彼女が水から出て、慎重に歩いて来るのを見た。月は彼女の右肩と腕、小さな胸を輝かせた。そして夜、海、女性が、月の光で照らされ、合流した。彼女は彼を見て、体を手で覆った。「あら!あっち向いてよ!」しかし、彼は彼女のイントネーションと行動から、彼女が水中にいた時からすでに自分の存在に気が付いていたのだと分かった。彼は服を取りに歩み寄った彼女の腕をつかみ、自分の方に引き寄せた。抱き上げると、彼女は更に青く縮こまった。彼は冷たく濡れた彼女の肌に、震えと鳥肌を感じた。彼女は消えるような声で「やめて」と言ったが、彼は黙って自らの落ち着きなさと胸の鼓動を感じながら、彼女を脇に連れて行った。

自らのだらしなさ、堕落した軽薄さの中に、抑え難い魅力と優しさを溶かす女性たちがいる。ベッソーノフの、女性に対する汚らわしい認識は、抑えがたく嫉妬深い欲望へと突然変化した。彼は暖かい夜に家を出て、ターニャのもとへ向かった。二人暗い砂浜を歩き、砂の上に倒れこんだ。悪天候なら、ガソリンや干し魚の臭いのする複滑車に隠れた。彼らは夢と現実の間の夜中に、空想に耽り、網に横になった。まどろむベッソーノフは、自分の中に女性が押し入って溶けるのを感じた。彼女は何も考えていないからベッソーノフと寝るのだと囁いた。翌日、ベッソーノフは寝不足で有頂天になり、一日中馬鹿らしく面白くないジョークをふりまいた。漁師たちは、班長は馬鹿になったのかという当惑から視線を投げた。彼はいつも潜在的に彼女を感じ、周りの非難を挑発的に無視した。三日目か四日目に、タチヤーナと二人きりになるため、彼は仮病を使った。彼は、どうして彼女のような物体が生まれるのかと考えた。まるで、自然が人間をからかっているようだ。ターニャは、男たちがもう一度自分をめぐって争って欲しいと語り、彼は驚いてそれを聞いた。男性たちが互いに拳で、血が出るまで彼女を巡って戦うことこそ、彼女の幸せなのだ。ターニャは彼に顔を擦り付け、自分に対して言いたいことを言い、したいことをして欲しいと言った。ベッソーノフは怪訝につぶやいた。「君に血をもってきてかけてあげよう。俺たちはお互いに喉を切り合おう。俺は確かに、分かっている。最後の糸が切れてしまうような限界がある。生全体が、糸と結び目の上に成り立っている。いつだってどこかが切れるのだ。」夕方までに、ジョーラは近くに誰もいない時を見計らい、ターニャとのことについてベッソーノフを咎めた。彼は足に全身の力をかけながら、黙っていた。夕方、彼らは事務所と連絡を取った。不意に、通信にはアーノルド・アーノルドヴィチ自身が出た。彼の高圧的な声で、一枚岩のような大きな姿が描きあがった。彼と争うためには、精神、思考、力を集めねばならない。アーノルドは重々しくしゃがれた声で残酷に言った。「明日、冷蔵中型漁業トレーラー『平等号』がやってきて、三百五十ツェントネルの魚を書類なしで手続きし、持って行く。」ベッソーノフはそれがどういうことなのか尋ねたが、アーノルドはお前には関係ない、と切り捨てた。無線機が静かになると、背の高いクリム・ウドドフが最初に正気に返った。彼は、アーノルドに騙されて、無給で三百五十ツェントネルが奪われると指摘した。ベッソーノフは肩をすくめ、その予想に同意した。

朝の霧の中、『平等号』は優雅に漂ったが、太陽が昇ると、重々しい姿になった。ベッソーノフは昨晩アーノルド・アーノルドヴィチと話した後、無線通信を切っておいた。漁師たちは上半身裸で、茶色い体を太陽にさらし、砂浜に座って、海賊行為を働く来客を見ていた。おそらく、船の方からも双眼鏡で見られている。ターニャは皆を朝食に呼んだ。彼らはバラックに戻り、惰性で食べた。五分ほどすると、平等号から二人がバラックの方へ歩いて来た。ベッソーノフは、背の低い、白い丸帽をかぶった小さな人間の方が重要人物だと分かった。この人は、入るに際して鋭い声であいさつをした。そして背が高く見えるように伸び、黒い口ひげが戦闘的に逆立ち、他人の住居の香りをかいだ。彼は、作業班長はどこか尋ねた。ベッソーノフは返事をせず、彼に座るよう勧めた。彼は座らず、「私は『平等号』の一等航海士ブイコフです」ときっぱり早口で言った。そして、無線に答えず海に出て行かないことについて、ベッソーノフを咎めた。二人はいがみ合い、ブイコフはいつ出荷を始めるのか、そもそもする気があるのかと急かした。ベッソーノフは落ち着いて、書類なしの納入はできないと答えた。ブイコフが文句を言うと、ベッソーノフは彼に帽子を脱がせた。短く適当に切られ、汗ばんだ彼の髪を見ると、何か月も海にいたことが分かった。ターニャがお茶を入れ、ブイコフはベンチの端に座ったが、突然何か思い出したかのように飛び上がり、急いで出て行った。彼の帰りを待つ間、ベッソーノフは銃を取り、ヴァレーラに磨くよう言った。三十分後、ブイコフは十リットルのアルコールが入ったブリキ缶を持って来た。ベッソーノフが厳しく断ろうとすると、その腕の下からヴァレーラが、素早く缶を奪い去った。ベッソーノフは激昂し、缶を返すよう言った。しかしヴァレーラはバラックの方へ走り去り、ウドドフも「アーノルドの命令だ」と言ってベッソーノフの道を阻んだ。ベッソーノフはウドドフを殴り飛ばし、立ち上がったところをもう一発殴った。ヴァレーラは缶を抱え、丘へと逃げてしまった。ベッソーノフは彼を追いかけず、銃で狙いを定めて撃とうとした。しかし、ジョーラの力強い手がそれを止めた。ブイコフと水兵たちは、慌てて船に帰った。それからベッソーノフはやっとのことでバラックに足を運び、今になって、負傷した小指の痛みを感じた。ベッソーノフがテーブルにかけていると、『平等号』からボートが出て、黒い征服と白い丸帽を身につけた船長がやって来た。遠くからは高慢に見えたが、近づくと、それほど厳かな顔はしていない。少しぼんやりして膨れ、緑っぽいクマがあり、半地下の事務所にずっと座っている書記のようだ。全く陸地の、無邪気な顔である。彼は曲がった足で自分を運び、右手を少し上げ、挨拶と自己紹介をした。船長ゾシャートコは、ベッソーノフの不機嫌な顔を舐めるように見て、気を配って微笑んだ。「隠さずに言います。あなたたちのせいで、台無しです。魚のためにお金を使ったのに、その荷積みができないなんて。意味のないケンカは辞めましょう。事務所と連絡を取ってください。」ベッソーノフはケンカの中止には賛成したが、事務所との連絡は取らない、とぶっきらぼうに言った。ゾシャートコは両手を背後に重ね、ひどく疲れた様子を見せた。二人とも黙り、最終的にベッソーノフが事務所と連絡を取る準備をすることになった。取り次ぎの女性の優しい声が彼の精神を少し和らげたが、一分もしないうちにアーノルド・アーノルドヴィチの声がかすれた。「ベッソーノフはクビで、作業班長はウドドフに交代だ!ウドドフを通信に出せ。」ベッソーノフは、ウドドフは寝ていると伝え、無線を切った。ゾシャートコは、作業班長のウドドフはどこかと尋ねたが、ベッソーノフは「ケツの中さ」とジョークで流した。船長はむくんだ笑顔を作って面白がり、口の中では金歯が輝いた。冷蔵中型漁業トレーラー『平等号』は、水平線の金色と明るい灰色の船体で一体化しながら左に急に進んだ。チャチャの仮泊場に行ったのだ。どちらにせよ魚は奪われる、最初から決まっていたことだ。追いかけても仕方がない。ベッソーノフは明日、家に帰る旨をターニャに告げた。一緒に来るかと尋ねると、彼女は恥ずかしそうに頷いた。

夜は少しずつ到来した。海岸の散歩につかれたベッソーノフは、長いこと海を見ていた。満ち潮は彼の足までやって来た。波の満ち引きは、ゆっくりとした呼吸や鼓動に似ている。ヴァレーラとウドドフは森で一度酔いつぶれて寝過ごしたが、二度目はまだ飲み足りなかった。二人は足場を、自分自身を感じず、記憶の中でだけ知っている時の、浮足状態にあった。足元で揺れるのはれっきとした大地だが、二人の頭は紫色に膨れ上がって波打っていた。彼らは酔っぱらって水を飲み、ベンチに座り、その傍でジョーラが火を起こし始めた。ベッソーノフは魚の箱をつかんで机に置き、ウドドフの向かいに腰かけ、酒を注がせた。作業班長ウドドフの成功を願い、ベッソーノフも熱い液体を飲んだ。ターニャが焼き魚の切れ端の入った鉢を持ってきて、コップを取った。これは飲み物か、ロシア人はどうやってこれを飲むのだ、と戸惑っていたジョーラも席について飲んだ。ベッソーノフはリラックスするために飲み始めたのだが、酔って野生化し、彼の心の中から人間が除去された。彼は目を覚まし、夜の新鮮な急流、成熟した香り、顔の傍で歌う蚊を感じた。或いは感じたのではなく、ただ心の中で想像したのかもしれない。ターニャは彼の方へ歩み寄り、ベルトのあたりを抱きしめ、何か熱く話し始めた。ベッソーノフは彼女の声を聞かず、抱きつく腕をどけようとした。彼女がもっと強く抱きつくと、彼は力を込めて彼女を自分から引き離した。涙で顔を濡らす彼女は、ここから出ていきたいという意味のことを言っていた。女性への苛立ちが揺れ動き、彼はほとんど突き放すようにして彼女を押し退けた。あるいは、魚を持って行かれたことへの苛立ち、憤怒があった。ベッソーノフは銃を持ち、ジョーラとはしけボートに乗って、漁網の方へと出て行った。ベッソーノフは船首に立って、月に切り抜かれたシルエットの上を撃った。何秒かして、狙いを定めて反撃の弾が撃たれた。弾丸は漁船のボルトに当たった。ベッソーノフはまた一撃したが、叫び声はなかった。連続射撃音が聞こえ、遠ざかっていった。ジョーラはエンジンを始動させ、彼らは漁網に歩み寄った。それから知り合いの職人に作ってもらった、刃の大きくて、長い折り畳みナイフを取り出し、網を切り始めた。ジョーラは手伝いもしなかったが、邪魔もせず、黙って餌の上に座っていた。網は手の中で強く震えた。何百ツェントネルもの、生きた、少し不安になった夜の魚が、狭い罠の中で円を描いて、壁を打った。ベッソーノフが網を切り離して放つと、魚は自由を嗅ぎつけ、深淵へと流れていった。二つめの漁網にも、同じことをした。彼らが帰って来ると、漁場にはチャチャにいたヴィーチャ、ミーシャ、スヴェジェンツェフが加わっていた。皆酔ってぐったりしており、たき火の音しかしなかった。スヴェジェンツェフは振り返って微笑み、立ち上がった。ヴァレーラは、テーブルではなくたき火の近くで両手を広げて寝ていた。ターニャは一瞬ドアに現れたが、佇み、再びバラックに隠れた。ベッソーノフがポケットに手を伸ばすと、ナイフがあった。彼は机に肘をついて視線を落としたヴィーチャの前に、黙って座った。ベッソーノフは羞恥心の混ざった、ぎこちなさを感じ、二つのコップに少しずつアルコールを注いだ。二人で飲もうとしたが、ヴィーチャは飲まなかった。ベッソーノフは、選択肢は二つしかないとヴィーチャに言い聞かせた。ヴィーチャが我慢するか、ベッソーノフが彼の前で…。ヴィーチャは視線を上げ、話をしたくないと言った。「俺と話をするなよ、アンドレイチ。」ベッソーノフが煙草を吸い始めると、ジョーラが静かにヴィーチャに話しかけ、二人はバラックから出て行った。すでにほろ酔いのスヴェジェンツェフが、ベッソーノフの肘を掴み、何か言いかけたが、彼は腕を払いのけて聞かなかった。ターニャはそれまで通り、ドアの穴の向こうの、暗闇の中に立っていた。ベッソーノフはただ、彼女の目のきらめきと、何かの服の明るい斑点を見ると、目を背け、底まで飲んだ。彼がその後見たものは、全て断片的だった。目の前にとどろく火の内部が見えた。彼は突然、小屋から遠い岸にいることに気が付いた。裸足で砂と石の上を歩き、時々腐った藻の堆積に踏み入り、その時には足の下でぴちゃぴちゃと音がした。彼はターニャを背負っていた。彼女は彼の首に腕で、ベルトに足でつかまり、何か熱いことを耳につぶやいた。彼はよろけて歩き、耳の中がくすぐったくなって笑った。しかし彼はまるで正気に返ったかのように、首を絞める腕を解き、女性を払い落とした。彼女は背後で声をあげ、彼は彼女の方を向き、起こして抱き、自分の中に熱さと、残忍さ、抱き殺してしまいたい願望を感じながら、彼女を押しつぶし始めた。「おまえは屑だ」彼は彼女の唇にキスをし始めた。これも残虐さと痛みと一種の野蛮さをもって、自分の唇と歯、そして手や固い指で彼女を押した。彼女は唸り始め、ピンと反り返ったが、自由の身にはならなかった。彼は彼女を突き放し、脇へのろのろと歩き出した。彼女は足を引きずり、その後に続いた。酔って笑っているのか、絶望してすすり泣いているのか、彼は理解したくなかった。気が付くと、彼は再び顔をやけどするようなたき火の近くに座っており、近くに寝ている誰かに話しかけた。「火について、君は何を知っている?」しかし火の真っ赤に焼けた芯を見ながら、突然冷たくなり、悪意をもって言った。「肉が欲しいか?そらやるよ!」彼はたき火の方に侮辱の握りこぶしを立て、笑い出した。火も暗闇に沈み、遠く前方に何かが光っているだけだった。彼にはそれが何か分からなかった。彼は水の近くに流れてきた、長くて重い綱の切れ端を肩で引きずり、さまよいながら考えた。全てが彼の周りを泳ぎ、流れた。彼はなぜ古いもじゃもじゃの綱が必要なのか分からなかったが、それを捨てず、光に向かってゆっくり歩いていった。光は結局、燃え尽きたたき火だった。まるで大地の気孔を通して下から光が染み込んだように、赤っぽい黒のさざ波が輝く悪の山だった。しかしそこでは、もう何も誰も、動かないように感じられた。そして全てが消えて静かになるのを、彼はもう見ていなかったし分からなかった。彼は、大洋の溝の底に沈んだのだ。そこは千もの水圧があり、全てが動かず、暗くて寒い場所、おそらく、全ての海の生き物と、寄りべなき魂たちにとっての地獄がある場所だ。

最初に不明瞭な音があり、それから鈍く泣くような声が、意識の中で動き始めた。「いや、見つかっていない。分からない。行ってしまったんだ。」それからまた別の声が、直に耳に言った。「立てよ、この野郎。」ベッソーノフは目を押し開いて光を見た。彼は横になっており、広くて落ち着きのない視界に、音を立てる垂直な波の筋が見えた。二日酔いの苦しみを感じ、彼は世界の傾きを正して起き上がった。ヴァレーラは冷たくなったたき火の跡に横になっており、ベッソーノフの近くには大きな目で浅黒い顔のジョーラがしゃがんでいた。彼は静かに、気味悪い声で言った。「お前らどうしたんだよ、子供かよ。」彼は立ち上がり、振り向かずにどこかに行った。「何だ?」ベッソーノフは言葉を発し、寒さで胸が痛みだした。「何だ?」起き上がったが、目の中は暗くなった。「何だ?」彼はほとんど叫ぶように言い、魔法にかかったように、ジョーラの猫背についていった。バラックの向こうのカヤツリグサの中では、小さなターニャが裸の体を丸め、背中を壁に向けて横になっていた。髪が広がり、暗い茂みでもつれ、顔は見えなかった。しかしハエが彼女の体に忍び寄り、飛び回っていた。ベッソーノフはジョーラを突き放したが、ターニャには近寄らず、一分間呆然と見ていた。それから後ろを向き、自分が揺れているのを感じた。二日酔いのせいではない。彼はターニャのことも、すべてのことをも忘れたかのように心臓が打ち、落下しそうだった。深く鼻で息をし、なぜか口で呼吸するのは恐かった。やっと家に足を運び、壁で身を支えながら、ベンチの傍で、頭をバケツに浸した。昨日の水は温くなっていた。目は腫れ、顔は、腫れて、脈打ち、水か涙かで濡れていた。彼はバケツから水をすくって飲み、顔と頭に打ち付け始めた。そして再び外に出て、バラックの隅で呆然とターニャを見た。力をこめて顔と頭をこすっていると、スヴェジェンツェフが何か言いたげに袖をつかんだが、何も言わなかった。ベッソーノフはヴィーチャを探した。ヴィーチャはまどろんだように、船の腰掛に座り、ボルトにもたれ掛かって首筋で腕を組んでいた。彼はやってきたジョーラとベッソーノフに、口もとで歪んだ笑みを見せた。ヴィーチャは彼女に指一本触れていないと言う。二人とも自分ではないと譲らず、ヴィーチャはボルトを飛び越え、岸を歩いて去った。ジョーラは、ヴィーチャかベッソーノフが殺したと思ったと言って、目を背けた。「俺じゃない、違う、信じてくれ。」ベッソーノフは首を横に振り、バラックの方へ歩いて行った。彼がポケットに手を突っ込むと、ナイフがない。もう片方のポケットも、バラックの机やベッドも確かめたが、なかった。ウドドフが言った。「漁期が終わる…遊びすぎたな、とんでもねえ奴らだ。愛だ、ヒューヒュー」部屋中探したが、ナイフは見つからなかった。無意味だった。再びバラックの向こうに行くと、ターニャの頭には布団がかぶせられていた。彼女の周りにも、ナイフはなかった。彼は戻り、ベンチに座ってスヴェジェンツェフに煙草を貰った。「動き回るな、過ぎたことだ。」彼は深く煙草を吸った、顔を上げず、腕と唇が強く震え、寒気がおさまらなかった。蝋を塗られたような顔をしたヴァレーラがやって来て、残りのアルコールは全部こぼれてしまったと言った。彼の声は、静かで、しんとしており、病的で、翻った舌で発音されているようで、人間離れしていた。そして再び、ウドドフが心配そうにつぶやいた。「内臓が全部出ていた。ぶたれたんだな。どうか安らかに…。裸だったのか。しかし服がないぞ。服はどこかに運び去られたか、ここに裸で連れて来られたのか。」ベッソーノフは立ち上がり、よろめきながら、再び彼女を見に行った。しかし彼は少し不安を感じた。エディクとジョーラがやってきて、報告すべきか否か、口論が始まった。彼らが去ると、ベッソーノフは何とかして元通りにするためには何が必要かを考えた。ターニャの中身を詰め、体の姿勢を正すこと、きれいに洗うことだろうか。彼は立ち上がり、彼女を見下げて立ち、何もできないということ、布団をめくることすらできないことを理解した。それから彼はリュックサックをまとめて背中に背負い、漁師たちが小屋の後ろの布団俵を持ち出すよりも早く去った。彼は五百メートル歩いて立ち止まって眺めた。小屋の近くで、ごく小さな姿が動くのがちらりと見えた。そして再び歩き出し、彼は怖くて振り向けず、海で何が起きるのか見ることも、想像することもできなかった。ジョーラ、ヴァレーラ、スヴェジェンツェフがロガチョフ島へと岸を離れていった。巨大なジョーラは、道案内のため、神官のように船首に立っていた。岸が布団の中にきつく巻かれ、ロープに縛られた物体の足元で、スヴェジェンツェフが缶に腰かけ、気晴らしに旅の話をした。旅中、殺されたり亡くなったりした人間が抹消されることは珍しくはなかった。石油調査の者たちが、頭を撃ち抜かれた上司を熊に食べさせたこともあった。夜にケンカをしてボルトに同僚を突き落とした漁師は、不慮の事故だったことにした。波はどこへも急ぐ必要がなく、自由でゆったりとしていた。薄暗く青い、冷たい空は突き刺すようにからっぽで、頭上でひっくり返った深淵となって開けていた。彼らは自らエンジンを切り、黙って、網からとった錘を死体の入った布団に括り付け、ボルトの外に投げ捨てた。彼らは、この恐ろしい物体が全て沈むのを、黙って見ていた。水晶のように透明な海底は、長いことこれを吸い込まず、隠さなかった。暗い色の部分は徐々に視界から消えたが、白っぽい部分は長い間、奥から光を発した。それは海の影と、魚の蜃気楼と合流した。緑っぽい薄灯りで永遠に生まれ、生息して死んでいった、かの魚たちだ。三人はボルトから飛び退き、缶に座って、黙って煙草を吸い始めた。そして五分もすると、スヴェジェンツェフは言った。「赦したまえ、主よ…」その時彼らは初めて頭から、ある人はキャップを、それからある人は汗と海の染み込んだニット帽を脱いだ。

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