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民俗小説『異教徒』- 水と風 章 - 概要 前半

第三章 水と風

島の岬は老人の額の形に似ていた。チャチャ火山のふもとで、漁師と大洋の戦争が準備される。そこでの死は、ツェントネルやトンで計られる。ヴィーチャがカセットテープの音楽をつけると、アザラシの群が劇場で観賞するように場所を占め、音楽に乗って飛び跳ねた。五十二歳、経験豊富な漁師のエディク・スヴェジェンツェフは、次のように見て取った。アザラシは耳も脳も介さずに音楽を聞いている。また、一定量の魚が罠にかかると、ふざけて意味もなく嚙みちぎるが、これは人間にそっくりだ。樽でタバコ休憩をしていたミーシャは、震える手でアザラシを二発撃った。しかし外れたため、ヴァレーラが裸足で水に入り、一発撃つと、一匹のアザラシが叫び声を上げて飛び上がった。ベッソーノフは二匹目を撃つのをやめさせようとしたが、すでに遅かった。ベッソーノフは得体が知れないヴァレーラに、漁ではなく料理を任せることに決めた。二体のアザラシの死体が波に打ち上げられた。ベッソーノフは、撃った奴が片付けるべきだと判断した。

漁師らは一キロごとに置かれる漁網を準備した。暗くなって岸に帰って来ると、若いヴィーチャは空腹を訴えた。ヴァレーラはいつもの場所でたき火を起こし、灯台の役割を果たした。彼は山にも裸足と銃で入って行った。翌朝、漁師たちは再度、雇った漁師に酒を飲ませて給料を払わずに去ったビジネスマンの話をした。

魚が罠にかかるには早くても、漁師らは網を確認した。カワスズキやヒラメ、ハゼなど人間ではなくウミガラスに食べさせるような魚がかかっていると、漁師らは岸までの道なりで捨てた。霧の濃い或る日、漁師らは海上で岸を見失った。エンジンを切って海の音を聞いていると、自分たちは独りではないことが感じられた。船は霧の中で絶壁に乗り上げ、漁師らを噴水が覆った。何とかそこから遠ざかると、それはロガチェフ島だったと分かった。島は夕焼け時に遠くから見ると、太鼓腹でしつこく大洋に譫言を言う象のような姿をしていた。岩の上のエトピリカが飛べない理由について、ヴィーチャとミーシャがくだらない口論を始めた。ミーシャはヴィーチャに煙草を貰い、興味本位で缶の中のハゼを殺した。動かなくなったハゼを解体すると、心臓はきちんと動いていた。その心臓を二つに切っても、怯えて縮んだり、翻ったりした。彼は四十代には見えないほどしわが多く更けていたが、心は少年で、生きるものが生きていないものに変化することを理解したかったのだ。ベッソーノフは、ミーシャが自分の好奇心のために、下手に魚を殺したことを怒ったが、他に何も説明しなかった。ミーシャはかつて大陸のリン工場で働いていた。事故に遭って身体的障害を負っていたが、全漁師の中で一番勤勉だった。朝から晩まで疲れを知らず、真面目に仕事をしていたが、常に自分の雇い主を求めていた。彼の言動は、ヒエラルキーにおいて自分よりも高い位置にある人たちにいつも左右され、ありのままの自分を出すことができなかった。上の者に対する奴隷根性、下の者に対する軽視があり、外斜視で、日本人のような広い顔をしていた。

魚の群来期には、大洋と互いの心を呼び交わすことができた。ベッソーノフは無意識に吠えるようにして、野性的な声を出し始めた。すると大洋が共鳴した。ある種寛大で、嘲笑するような声がして、人間の中に喜びの満ち潮が起きた。大洋には雌雄両性、二つの顔がある。今は清廉で女性らしく、緑と淡い青色で、人間に寛容に接していた。一方で、奥に秘められた男らしさを出せば、鉛色で暗く、固く、寒さと風で鞭打ち、人間と対立することもある。ベッソーノフは自分がなぜここにおり、どこにいくのかを忘れて歌った。彼は大洋の柔軟さを感じ、第六感の霧から、大洋の深み、潮流、ご機嫌を感じた。そして、明後日にでも鮭の大軍が島を訪れる予感がした。ベッソーノフは漁場での生活に信頼を置き、他には何も信じないとしながらも、自分で考えついたジンクスを信じたり、家の神や死者の霊を気にしたりした。漁師たちの中にも共通のジンクスがあった。例えば、自らの支えとなる海には唾を吐いたり放尿したりしてはならない。成功と自分の頭を吹き飛ばす恐れがあるため、海で口笛を吹かない。成功した時には口に出してはいけない。十三日は岸に待機する。二つの顔を持つ大洋を信頼してはならない。ジンクスはそれぞれの漁場で自然に発生し、仲間内で理解されたが、出自は誰も覚えていなかった。ベッソーノフのところでは、「六」が不吉な数字であるとし、六人でボルトに出てはならないとされた。また、私的な迷信もあった。寝るときに靴を枕元に置くこと、起きてからすることの順番などである。スヴェジェンツェフは運転する前には必ずエンジンのカバーを撫で、何かつぶやいた。ジョーラは使い古したポンポンつきニット帽を、いつもお守りのように身に着けていた。この日鮭の大群が、それから一週間後にはカラフトマスの大群がやって来た。漁をし、網にかかった魚たちを、何とか嵐の到来前に引き揚げ船に引き渡した。

どの嵐にも特別な気質がある。嵐はタタール軍のように岸を襲い、すべての音が聞こえなくなる。膨らんだ大洋は陸よりもずっと高く、大地が水や泡にまみれることもある。しかし、水と陸の境界においては、大洋は大きな酒杯からこぼれることはない。漁師たちは何日も寝床で横になっていた。顔のむくんだヴァレーラのみが起き上がり、他の皆を食事に呼んで歌を歌った。ベッソーノフの腕は鈍く痛み、他の漁師と同様、手が魚の粘膜で張っていた。指を伸ばすと裂けて血が出るため、ワセリンを塗る。スヴェジェンツェフは一日二回、日本の漢字が書かれたチューブからクリームを手に塗っていた。岸辺で拾ったものだ。クリームは生乾きのシーツのような悪臭がしたが、効果抜群だった。嵐の二日目、漁師らは無線で、エトロフ島の漁師が亡くなった知らせを聞いた。その漁師はあっという間に波に飲まれて亡くなったのだと想像がついたが、安全装置や然るべき理由について、でたらめなことを言う公式の放送を聞いた。その日の夕方、嵐の中から火山学者の女性二人と男性三人がクナシリ島に到着した。漁師たちは異星人のような来客に興奮し、バラックで世話をした。学者らのリーダーは、ボルドー色のナイロン製上着、黒いベレー帽にメガネの老人だった。彼らは皆、漁師の寮に押し掛けることになった。ベッソーノフが「嵐の中どのように来たのか。待機すべきだったのでは」と問うと、教授は「チャチャヤマでの目的は達成した、時間は貴重だから」と答えた。彼らは母なる大地、ウラジオストクからやって来た。漁師たちは鍛えられて張った体の女性二人に注意を引かれた。女性の雰囲気が部屋に充満し、漁師たちはいつものように罵言を飛ばし合えなかった。スヴェジェンツェフは夕食を準備し、鮭の内臓を取り出すのを披露し、珍しい蟹のカツレツを振舞った。学者らにとって、食べ物は最初こそ奇妙だったが、旨くて気に入った。ヴァレーラは「以前にも鳥類学者らが島に来たが、その時は男ばかりだった」と話を合わせようとした。教授は鳥類学の学問の面白さに食いついたが、すぐに話題を食事に戻した。漁師らは食事中も女性から目が離せなかった。ヴァレーラが教授にアルコールの有無を尋ね、助手が取りに立ち上がると、酒は禁止だと言ってベッソーノフがひき止めた。教授は再び話を食事に戻し、蟹を思う存分食べることがあるなんて思いもしなかった、と感激した。ヴィーチャは言った。「完全なことなどない。蟹があるところには女の子がいないし、女の子がいるところには蟹がない。」教授は笑い、女性たちも微笑んだ。教授は漁師の仕事や生活に興味があり、質問を重ねた。ベッソーノフは答えた。「素人には興味深いかもしれないが、漁師の世界に引き込まれると、生きるものや死んだものを見る目が変わる。一匹しかいないニシンを殺して味わう絶頂と、何ツェントネルも殺して意味のない血にまみれる感覚は違う。漁師は自分が死の工場主であるかのように感じ始める。工場の機械にとっては、目の前のものが生きていようが死んでいようが関係ない。最初は命ある魚を殺す人間も、それを繰り返すうちに死に慣れ、漁師の中で魚の生がその価値を失う。普通の人間の中にも、生と死の境界が判別できない殺人者がいる。」教授は、福音書の漁師たちについて質問した。ベッソーノフは答えた。「福音書の漁師たちは自分たちが生活するためだけに魚を取るが、我々が獲るのは“大きな魚”であり、自分でもその大きさが全く分からない。」

その夜、疲れた火山学者たちはいびきをかいて寝ていたが、漁師たちは中々眠りにつけなかった。ろうそくの置かれたテーブルには教授が腰掛けていた。ベッソーノフは布団から出て、教授の前に座った。ノートに迷路を書きながら、教授は言う。「海の音がうるさくてなかなか眠れない。人は信仰に、最も空想的で優しいうそをつく。空想的な方が、信者が増えるからだ。君たちは、私が現実的な災害予想を教えても信じない。」ベッソーノフは過去に何回も災害予想が外れたため、信じないと言った。翌朝、ベッソーノフとヴィーチャは科学者グループを送り、「科学」に別れを告げて漁船に戻った。ベッソーノフは歩きながら笑い始めた。「散々話したな、年寄りのでくの坊、嘲笑いやがって。」

或る日、ベッソーノフ、ヴィーチャ、スヴェジェンツェフが揺れる船上で漁をしていると、青緑の日本の龍のような魚の大群が漁網に流れ込んだ。波に揺られながら指示を出し合い、両腕そのものが仕事を理解して動いたが、もっと上手くできたはずだった。もう一度大群が掛かり、人々から網を引きはがそうとしたが、皆が指一本離さずに握っていた。その指は傷の癒えた場所が再びひび割れたが、これが自分の手であり自分の痛みであると考える者はいなかった。船を係留し、彼らは休息と乾いた服を求めて、バラックに歩いて行った。彼らは夜ごとにヴァレーラの濃いスープを食べ、寝床で休んだ。無線をつけると、空前の鮭の大移動がサハリンの川を塞ぎ、権力が自由漁を許可したという知らせが入った。ベッソーノフは手を伸ばして無線を切り、漁師たちは普段の会話に戻った。料理の得意なヴァレーラは、明日の食事の注文を受けた。ベッソーノフは考えた。漁師は変な奴らばかりだ。質素な食事でも、お茶一杯でも、たばこでも、何からも満足を得る。朝から晩まで漁師を囲むのは、漁船とその中の水、海、魚の選別、オール、銛、死んだ魚、血、粘膜、湿った服、蚊とブヨに刺された醜い顔、まるで呪われた人生だ。漁師は自分が何を稼ぎ出せるのかは分かっていないが、ガラクタを求めてビジネスマンになることには嫌悪があった。漁師一人一人の中には、漁のペースを落としたいという弱い瞬間もあった。その弱さは催眠的に仲間に伝わったが、腹を立てられるようなことはない。彼らは思考や言葉が少なくなり、原始的なユーモアでからかったり、暴力をふるったりした。ベッソーノフは、外で夜明けのオレンジ色を眺めながら、服を乾かした。彼らはジョーラの漁団と合流するため、料理のうまいヴァレーラを連れてチャチャまで歩いて行った。ベッソーノフが無意識に考えていたことを、ヴィーチャが口にした。「岩壁が女性の顔みたいだ。足とケツもある。」その姿は流れ移って変わり、漁船の動きに沿って生きた。漁師たちは、岩壁の姿は単なる光の明暗の遊びではないということを習慣的に知っていた。古代アイヌ人は言った。「世界のすべての物体が、固有の魂を持っている。」漁師の中には同じことを率直に言える者は誰もいなかったが、これを否定できる者も誰もいなかった 。航海中に自分を支える助けとなるものを否定するのは馬鹿げている。

納入作業中、漁師たちは理性で判断できなかった。二隻の漁船で、夜の十一時まで荷卸しだ。漁師らは質素な夕食を食べ、二十分の狭苦しい休憩をし、また作業をした。意識は魚以外の何にも向かず、何トンもの巨大な生きた塊が無定形に流れ、水中で揺れた。波が来ると魚の塊が昇って息を吸い、波が引くと息を吐く。漁師らがこの塊に器具を突っ込むと、何百、何千もの魚が漁船に流れ込み、尻尾を撃つ。割れた鰓からは血が飛び散った。粘膜、暗い色の血、死だ。曙の中、意識が薄れる前に、ベッソーノフは次のように感じた。無限に富み、底なしの優しい生に満ちた大洋は、人間にとっては乱費の対象なのかもしれない。しかし、大洋にとって人間は何でもない。人間は大洋の高慢と無関心を理解し、受け入れる。人間はエゴイスティックで卑小な、自然の末裔ですらない。全ての生と死も、大洋の体を覆う全ての生きたカビも、何でもないのだ。漁師らは限界まで漁をして、船上には三十五ツェントネルの死んだ魚が横たわっていた。前方には別の漁船の船首に立つジョーラの姿が見えた。彼の周りには太陽のコロナがきらめき、聖人のように見えた。漁師らは、商人たちに騙されていることを知っていた。秤は嘘の数値が設定され、傷のある魚は値下げ交渉をされ、毎回五~七ツェントネルは無料で持っていかれるのだ。しかし漁師らは黙っていた。商人とはこのような人たちであり、文句を言ったところで仕方がない。彼らは苦し紛れにジョークをこぼしながら、夜中まで仕事をし、朝の三時に主要漁場に向かった。睡魔と闘いながら仕事をし、漁船に流れ込む魚は死のダンスを踊った。もの好きの一般人がその様子を見物する。漁師たちは、自分たちが血のぬかるみの中にいることを認識していない。ヴィーチャは作業の中で自我を失いながら、自分の体を感じようと努めた。ゴム製の作業着とローブの中で、服は汗と流れ込む水で濡れていた。作業着は鱗と粘液で輝き、燐光を発している。空間には魚の香りが蔓延した。死にゆくカラフトマスは、腐ったキャベツの香りがする。そしてある瞬間、自分を取り巻く全てが現実味を失い、ヴィーチャは頭まで海に沈んだ状態で呼吸しているような感覚に襲われた。魚を含め、全てが意味を失う。ヴィーチャはこれが生きた魚だと分かっているが、そう理解することを意識が拒むのだ。魚はもはや、海の命や恵、金や欲望を量るものとしても意味を失っていた。全てがどうでも良く、作業過程そのものだけが重要だった。漁師らは二十四時間以上海におり、また夜が来た。ベッソーノフは夜の二時に休憩を言い渡した。漁師らはバラックで服を脱ぎ、食べ物を押し込み、横になったが眠らなかった。四時間には作業再開だ。朝食をとると、再び装置を動かした。一斉の息継ぎ、唸り声、持ち上げる動作、顔の水しぶきの他には、何も知る必要はない。ただ、水で膨れた触腕が、痛みと触覚を失った自分の腕だということを忘れなければよい。血管は割れ、関節は弾け、腰が緊張で麻痺する。体は熱く、足は湿って凍え、心の中に忌々しい感情が広がる。養殖場に戻る道で、漁船に溜まった粘膜と血、そして沈黙を流す。彼らは海の上位カーストにあたる、船長の船室で昼食をとった。木の箱には小さなモミの木が生え、二人の男の子の写真とチベットの絵がある。船長はまだ四十歳に満たず、フレンドリーで鋭敏な人間で、もう四か月も海に出ていた。ヴィーチャは漁船に戻り、スヴェジェンツェフと交代した。浅瀬に座っていると、トロール船の当直が、昼食をとってくるよう言った。ヴィーチャは口をききたくないほど体中が痛んだが、漁船を離れることはできなかった。納入の後、漁師らはチャイカの天然温泉に温まりに行った。ジョーラは地下熱でお茶を沸かし、ヴィーチャはシーツを敷いて横になった。彼は水中で自分の体を感じず、明るい空間を飛んでいるようだった。ベッソーノフは、ヴィーチャが母親の体内にいるみたいだ、母親を見捨てるなど不本意なことだと呟いた。ヴィーチャの頭がシーツから滑り落ちると、ジョーラは彼を起こそうとした。しかしベッソーノフは寝かせておくよう指示した。彼らが岸辺に戻って来ると、誰か二人の足跡が砂の上を走っていた。大きな男性のものと、小さな裸足の子供のものだ。漁師たちは考えた。これらの足跡は、まるで他の時代から、あるいは平行する他の空間から来た足跡のようだ。ここに跡を残した人たちとは、永遠に肩を並べて歩いて行くが、彼らと接することも、彼らを目にすることも、耳にすることも二度とないのだ。

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