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民俗小説『異教徒』- 土 章 - 概要

第二章 土

赤ん坊が母親に吸いつくように、人は海に吸いつく。ベッソーノフは二十年前、学校の歴史の先生という職業に見切りをつけ、クリルの漁師となった。金髪の陽気な妻のポリーナは反対する母親を押し切って、一歳の娘を連れ、スーツケース一つでついて来た。ベッソーノフは、最初は仕事がなかったが、すぐに密漁を覚えた。「自分がすることは全て、自然が自分の腕を使ってすること」だと言い聞かせて自分をなだめ、食べきれなかった魚が腐敗するのを眺めた。イクラを大陸のポリーナの母に送って売ると儲かり、ベッソーノフらは大陸の住人が二年で稼ぐ金を二か月で稼いだ。これはもうやめられない。何を買いこむかと妻の夢が膨らみ、三年間だった出稼ぎ期間が引き伸ばされた。ベッソーノフにとって、お金はどうでもよかったが、島々と海の慰めが彼を引き込んだ。大洋は、生、流れる時間そのものであった。大陸で壁のように立ちはだかり、彼の視野を狭めていた、過去の巨大な帝国の歴史が溶け始めた。島では、戦線のように死が人々を刈った。大陸とは異なり、島民たちは待ち伏せされていたように人生から追い出された。火事、ウォッカ、海での事故、そして少なくなかったのが自殺だ。彼はプジェンコという男の自殺に、物好きの野次馬が集まったことを思い出した。プジェンコは死ぬ直前まで人々に助けを求め、ズボンを履いていない自分の姿を恥じた。ベッソーノフらが彼をトイレに連れていくと、彼の脚の間からは、排泄物ではなく桃色っぽい白の腸が垂れ下がった。ベッソーノフは過去のどんな復活も、プジェンコの元では起こり得ないと理解した。その時から彼は、死についての本を読まなくなった。強欲な妻と、何でも人に施すベッソーノフの間には、口論が増えた。彼は歳をとるにつれおおざっぱになると、人間の重要な本質をつかむようになった。街の群衆には個々の顔がなく、それぞれ閉鎖的である。対照的に島やタイガ、海などの自然の中では、人間の輪郭が縁どられ、中を満たされ、世界に開放されている。人々は自分自身たることができたのだ。彼は、大きな国中からこの島に集まった人たちの多様性を考えた。どの人にも共通したのは、国家の子孫だということだ。各々が持っていた文化の独自性は無為に浪費され、誰が何を持ち込んだのかは忘れ去られた。それらの統合の結果、島では簡素な生活が生まれた。国籍や宗教にかかわらず、三つの祝日と共通の喜びの基準が設けられた。島の人たちは遠く離れた祖国よりも、自分たちの人々、海、土地を愛した。風貌や職業を異とする島民たちは、ほぼ全員がよく飲んだ。そして彼らは「元インテリ」だった。大陸で言うインテリとは異なり、彼らはよく働き、なぜ自分がここに来たのかを知っており、知的な言葉を使った。この人たちはいつまでも島にいられるのか、それとも先駆者たちのように消えるのか。島をクナシリと名付けたのは古代アイヌ民族だった。黒い大地、灰の降りかかった大地という意味だ。アイヌ人の前には別の民族、コロポックルがいた。後から来たアイヌ人が、コロポックルを皆殺しにした。そして日本人がアイヌ人と四百年間戦い、アイヌ人を駆逐した。その後、ロシア人が日本人を追い出したが…そのロシア人もまた、追放の危機にさらされている。

ベッソーノフは、島が日本に返還されれば自分も追い出されるだろうと考え、大陸への脱出を検討していた。彼の妻は金銭的豊かさによって外見も性格もすっかり変わり、大陸での幸せな未来の生活を思い描くのが好きだった。しかし財産をため込む妻に対し、ベッソーノフは忍耐を募らせた。経済の停滞がもたらされると、島の蓄財家らは絶望に襲われた。そのうちのペレモ-ギンは、ベッソーノフに自殺をそそのかされ、本当に倉庫で首を吊ってしまった。その年、ベッソーノフ夫妻は、高値にめげずに洗濯機を購入した。妻はこれを何処に置くか悩み、故障を恐れて火事まで結局一度も使わなかった。娘のヴェーラは十九歳で中尉と結婚し、夫の移動でハバロフスクに行ってしまった。ベッソーノフは、世界には別離も、喪失も、獲得も存在しないと理解しており、これを悲しまず、いつも通りの生活を続けた。

ベッソーノフが十三歳の時、それまで五年間働いた工場で父親が死に、引っ越すことになった。以前の学校では成績優秀だったベッソーノフは、新しい学校では一か月間、少年たちに暴力を振るわれた。そしてある日逃げ出し、暴力グループのリーダー・ペツとの決闘にも勝って、いじめは止んだ。そのかわりにアルジャークという十五歳の少年にターゲットが移り、最終的に少年はペツにナイフで切り殺されてしまった。ペツも刑務所送りになり、子孫を残すことはなかった。ベッソーノフは恐怖におののいて逃げて来た屈辱的な自分の過去を妻に暴露したが、言うべきではなかったと悔いた。

ベッソーノフが漁師として働くようになると、ネグロポフという五十歳の男に出会った。不思議なことに、ネグロポフにはアルジャークの面影があり、胸にはナイフの傷跡まであった。ネグロポフは小さくて低俗な根性を権力に隷属させ、新人のベッソーノフを見張り、命令し、罵った。ベッソーノフは心の中で復讐計画を温めたが、ネグロポフは次の漁期の前に故郷に帰ってしまった。ネグロポフがいた頃、彼は漁期の最初に船に流れ込んだ魚たちの中に膝まずいて屈み、子持ちカラフトマスをしっかりと手でつかんでその頭にキスをした。不意の幸せで満たされ、彼は一瞬本来の優しさを取り戻したのだ。漁師たちは最初の一匹を、カラフトマス、雌、魚などと呼ばず、お母ちゃん、と呼んでいた。ネグロポフがお母ちゃんを手放すと、魚たちは体をくねらせ、死のダンスを踊った。ネグロボフは今まで通り他の誰かの人格を自分の中に取り込み、命令と罵言を放ち始めた。十年もすると、ベッソーノフも作業班長になり、人格が凝り固まった。しかし最初の魚にキスをするときは班長でも、人間ですらもなく、巨大なる海の小さな滴の一部であった。海の前ではベッソーノフも、ネグロポフも、皆が平等だった。

火事の2週間後、ベッソーノフは「人間らしく生きたい」と言って大陸に去る妻を見送りに行った。ベッソーノフは自分が強欲なポリーナの採掘ロボットのようになっていたこと、何年一緒にいても結局他人同士でしかなかったように感じたことを打ち明けた。彼女はこれを理解せず、船内で飲む水のボトルを買って来るようベッソーノフに頼み、漁期が終わったら早く大陸に来るよう言った。ベッソーノフは同じく島を出て行く友人のユーラに会った。ユーラは自分が台風の目を見たのに生きながらえた不思議を訴え、船上で亡くなった同僚のサーシャのことを嘆いた。ベッソーノフは、サーシャを覚えておく意味でコップを挙げた。船が去ると、物や妻への義務から解放され、ベッソーノフは喜ばしさも苦痛も感じなかった。そして海を眺めながら、全てがありのままにあった時代、人間による思考がなく、神も、善悪の概念もなかった昔に思いをはせた。

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