文学と健康
執筆:ラボラトリオ研究員 七沢 嶺
私はひとつの仮説を立てる。それは風に揺られる一本の葦のように弱い仮説である。一文と一文の間に因果関係の科学的根拠のみられない私個人の感想という程度の思想的なものである。もし、すでに似たような仮説や実証がなされているのであれば、それに倣いたい。私の隙だらけの文章から、あらゆる反証可能性を提示し、私の思想が信仰にならず、紙一重で科学的仮説の範疇であることを期待している。また、文学の初学者である私の独断と偏見や、事前調査をしていない怠惰・不手際を心よりお詫び申し上げたい。
小説作家は短命である。一方、専門歌人・俳人は短命ではない。小説はその自由度の高い文学形式であるが故に、一般的によしとされない言葉、反道徳的な言葉を叙する機会が少なくない(『よしとされない』『反道徳的』は主観であり、時代や地域により様々であるが、長い人類の歴史において明らかな非人道的態度のことをさす)。そのことが作家に僅かな精神的苦痛を強いることにつながる。長年の蓄積の結果、作家は精神を病み、不安・焦燥など様々な精神障害をきたす。最悪の場合は自殺に至る可能性が考えられる。また、精神のみにとどまらず、身体的な障害にも発展し、恒常的な免疫力の低下をきたす。当時は死病といわれた結核が重症化しやすく、若くして亡くなる場合が多い。
一方、俳句や短歌の世界は、一般的によしとされない言葉や反道徳的な言葉は一切存在しない。万葉集から現代短歌、江戸俳諧から現代俳句まで、いわゆる汚い言葉はみられない。リテラルとして表現されていたとしても、そのニュアンスを含まない。歳時記を紐解けば明らかである。愛憎や死、戦争といった負の一面は詠まれているが、客観化・普遍化が徹底的になされており、作者・読者ともに負の力を受けることは少ない。いわば、女性から男性への呪いのような歌でさえも、詠み手本人の情緒からは離れているのである。極端な言い方をすれば個から公の「共有財産」に昇華されているということである。短詩型文学はその性質上、情緒のみの次元は越えていなければならず、その普遍化がなされていないと世に残るものとはなりえない。但し、小説よりも、短詩型文学が優れているという主張ではない。私小説も大衆が「読む」ことのできるように普遍化されているのである。徒に小説を貶めるものではなく、すべての文学―小説、随筆、俳句、短歌、詩に最大限の敬意をはらったうえでの主張である。
以上の「的を得ない」仮説が、私のなかでなぜ芽生えてきたかを次に述べる。
先日、私は「嵐が丘(Wuthering Heights)」の邦訳を読む機会があった。エミリー・ブロンテ氏の書いた十九世紀の英国文学である。サマセット・モーム氏の世界の十大小説のひとつであり、世界の三大悲劇ともいわれる名作である。あらすじはここでは述べないが、読了後に精神的動揺をもたらすほどの狂気を孕んだ内容なのである。しかし、その狂気がひとつの魅力であり、読者をその世界に引き込むほどの力がある。それは、形而下なる令和の現実世界にいる限り体験できないであろう貴重な経験を私にもたらすものであった。
殊に、私は俳句と短歌の学習ばかりをしていたがために、「嵐が丘」のもつ「毒気」に影響を受けてしまったようである。俳句や短歌においてこのような経験はなかったために、その「差」をより強く意識したのである。作者のエミリー・ブロンテ氏は「嵐が丘」発表後、若くして結核で亡くなったそうである。その事実から、太宰治氏や芥川龍之介氏も短命だったことを思い出した。中原中也氏、宮沢賢治氏、尾崎紅葉氏、三島由紀夫氏、二葉亭四迷氏、坂口安吾氏、他にも多くいるかもしれない。海外文学は殊に疎いが、シェイクスピア氏やバルザック氏は五十歳あたりで亡くなっているそうだ。シェイクスピア氏の戯曲はいくつか拝読したことがある。「マクベス」「ジュリアス・シーザー」の悲劇は生涯忘れることはないだろう。また、バルザック氏が珈琲中毒であった逸話を知り、命をかけて精神をすり減らしながら執筆したのではないかと想像した。それ故に、魂を激震させるものが書けるのかとも考えた。僅かな「毒」がその人を治療する良薬であるという通説のように、小説のもつ「毒気」は人を引きつけるひとつの魅力であり、「負」を「美」に昇華させうるものである。その点において、「毒気」とは作家の「魂」の一面であるかもしれない。
一方、平安時代の歌人、紀貫之とその従兄弟の紀友則や、柿本人麻呂は当時としては長生きであったといわれている。明治、大正、昭和の歌人や俳人を調べ尽くせば「仮説」の通りではないと思うが、初学者である私の知識においては、小説作家ほどの悲劇を聞いたことがない。正岡子規という俳句の生みの親が短命であったことは仮説を反証するに十分であるのだが―。
以上、私は小説の「悲劇的」一面を述べてきた。しかし、小説は喜劇など多様であり、一概に毒を含むとはいえない。そして、繰り返しになるが、毒も薬になるという点においては善し悪しもない。作家の魂の顕れであるから敬意を表すべきである。また、フランツ・カフカ氏の「城」「変身」のように一読、不気味な悲劇といえども、そのなかに「おかしさ」を含む小説も少なくない。カフカ自身も戯話であると語ったそうである。
かくして、小説には小説の良さがあり、短詩型文学も同様である。要するに、程度の問題ではないかと思えてくる。日本や海外の小説、随筆、詩歌に万遍なく触れることが最適なのかもしれない。それでは専門家にはなれないという反駁については、文学とは何かの目的のために学ぶのではなく、人が人としてあるための教養という程度の回答にしておきたい。なぜなら、文学とは何かという問への最適解は人の数だけあると思うからである(今後、学習を深め学究的考察をしたいと考えている)。
あえて、「文学と健康」という題目にかなうことを付け加えるとするならば、美しい言葉に触れる機会を増やすと良いのではないだろうか、という提案である。決して、負の言葉に満ちた小説を避けよということではない。読書とは、筆者と読者の対話であると定義すれば、読者である自己を客観視する態度が求められるだろう。物語に没入することと、リテラルを通した筆者に「憑依」されることは別である。日常においても、会話でその都度、「汚い」言葉に傷つき、避けていたら対人関係はままならないはずである。
最後に、本を好きな方もそうでない方も、小説作家も皆が心身ともに健康であることを願う。私の兄が、ひとつの小説を書き上げるために日々苦労している姿をみると、応援したい気持ちと気の毒に思う気持ちが半々である。一方で、文学鑑賞と感想文のみを書いて満足している私は、春野のたんぽぽのように呑気なものである。
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【七沢 嶺 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。