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育児と私

執筆:ラボラトリオ研究員  七沢 嶺

人は生まれた時と亡くなる時、如何しても人の世話になる。葡萄の樹に葡萄の実が成る様に人らしく生き、また人らしく亡くなる。この必定は困難ばかりではなく、ときに精神を成長させ輝かしい未来へ飛翔させる。

生まれて幾日も経たない小さなちいさな赤子が全身全霊で声をあげている。その眼からは泉より溢れ出る水のように清らかな涙が零れている。これほどの純粋無垢な涙はいまだかつて見たことがない。可哀想に思う気持ちと共に一種の感動が湧き上がり、そのことが却って悲しみを増した。全く無防備であるその身体の弱さとその内に秘める命の強さは、まるで蛍の明滅のように、連綿と続く生命の本質を体現しているかのようであった。

橙色の電燈がぼんやり暗闇と混じり合っている。空気の淀んだ部屋に泣き声のみが響き渡る。おむつは交換した、母乳とミルクを飲んだ、室内は適温――にも関わらず、なぜ泣くのか。泣かないでほしいとは私の都合、利己心かもしれないが心の痛みは避けることができない。電燈がつくり出す巨大な影が私の不安を煽り立て、ついには呑み込まんとする。「冷静」になろうと自己の内面を照らせば照らすほど、私の精神の背後にある影は濃くなり周囲へ伝染してゆく。

妻は泣く赤子を抱いて椅子に座ったり歩いたりしている。泣き声の合間に、上の階から人の動く音が僅かに聞こえた。もしかすると、近いうちに苦情が来るだろうか。妻子の苦しんでいる時に社会的体裁を気にするとは、私は親として失格かもしれない。妊娠中の妻に対して、育児とは自己を追い込むほど頑張り過ぎるべきではないが、我が子が溺れているときは濁流に身を投げる覚悟が必要であると偉そうに話したことを思い出した。我が子の泣いているこの時に、何の役にも立たない私はその覚悟に到底及ばないだろう。身の回りの世話はできたとしても、魂の次元で心の底より寄り添うことができなければ、平安を見いだすことはできず、妻子と魂を共にする点において、我々は相互作用する一心同体である。

カーテンが白みはじめた。子はいつの間にか寝ているようである。産褥期の妻はまだ完治していないその身体を布団に沈めている。枕元にとり残された布おむつを手に取るとひんやりとしている。はやく洗濯機を回さなくてはと思うと、この日々がいつまで続くのかと暗澹たる前途がよぎる。職場では育休とはいえ、私ひとりいなくても社会は何事もなく回るだろう。私の内を満たす詩的厭世観は社会を拒絶するが、一分の要請もないとそれはそれで求めてしまうという厄介者である。何事も必要とされているうちが華なのかもしれない。社会は私に金銭的価値を付与するが、それだけでもあるまいと自惚れるより他になく、究極的には私の価値は私によってのみ定義されうるものだろうか。それを広義に自己肯定感というのならば、私自身もこのようにして親に育てられたという自覚が未熟な私の一切を肯定させるのである。飛躍すれば、両親の覚悟や愛への確信は、私個人のみならず先祖代々果ては人類の肯定である。今この瞬間を生きる全ての人々を愛おしいとすら思えてくる。

カーテンから淡い光が射し入り、子の顔が優しく照らし出される。その穏やかな表情と寝息には、昨晩の出来事はまるで刻み込まれていないかのようである。妻は子を守ろうと腕を伸ばしたままである。目は閉じていても、愛に満ちた眼差しで包み込んでいる。母は強くそして気高い。男女平等社会とは偉大なる女性を凡夫に引き下げることではないだろうか。社会は表向き男性がつくるものかもしれないが、人を産むのは女性である。女性への敬意なくしてどうして男性は善き子育てができるだろうか。また、乗り越えなくてはならない絶対的なる母の愛は我々の前に聳え立つ巨峰であり、その道程は継承されうる生命の働きである。

私がいかに自己陶酔し感傷的になろうとも時は過ぎゆく。連日の子の混沌とした行動のなかに僅かな喜びとともに普遍性を見いだすこともある。それでも時に、なぜ泣くのかわからないこともある。カーテンを開け外を見やれば、子育てに対する私の意志、覚悟、情熱は、この昇りゆく朝日のように高みつつあると確信した。

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【七沢 嶺 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。

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