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この世の花を楽しむことの意味。辻邦生の『西行花伝』

☆新潮社ハードカバー(新潮文庫版もあり)


武士であり僧侶または歌人であるとはどういうことなのか

(はじめに)
誰しもが興味を持つのは当然のように、これまで実に数多くの作家や研究者の手により描かれてきた西行像。そのどれもが似ているようで似ていない(あくまでも想像である)ということは、突き詰めれば<同じものはない>ということになる。残された歌集の句と句のあいだを隙間を埋めるように、あるいはジクソーパズルのように繋ぎ合わせて答えを導き出す。手掛かりはそれしか残されてはいないのだから、どれが正解でも間違いでもない。そんなことは誰にも断言できはしないのだ。私達に許されるのは、結局それらのどれを信じるか、またはどれが気に入る答えなのかということだけなのかもしれないが、ここでは一つ自分なりの西行像を描き出してみたいと思う。



辻邦生の描いたこの歴史小説を読み、西行という人物の生き方考え方に強く惹きつけられた。
平安時代末期から鎌倉時代の初めに名門武士の家に生まれた佐藤義清は、後に出家して西行法師となるが、同時に歌人としてもすぐれた多くの歌を残した。

西行と言えばまず頭に浮かぶのが有名なこの『辞世の句』。

―願わくは 花のしたにて 春死なん 

そのきさらぎの 望月のころ―

(できれば春に満開の桜の下で死にたいものだなあ。二月の満月の頃に)


歌の魅力もさることながら、何と形容すべきか一人の人間の中にある変幻自在的な身の処し方には目を見張る。僧侶でありながら歌人として生きるとはいったい彼のなかでどういう意味を持っていたのか。それには西行という人物の生来の人柄を知ることが必要不可欠な事柄だろう。
子供時代のある印象的なエピソードを見つけたので、まずは紹介しよう。

落ち着いて思慮深い子供だったという義清(のりきよ)は、何事にも熱中しやすい不屈の精神の持ち主であったようだ。血筋の影響か体力的にも勝り、馬や蹴鞠や弓などの習熟も人一倍早かったという。そんな義清が流鏑馬(騎馬を走らせながら弓を的に射る)という競技の奥義について源重実という人物に教えられた時のこと。

ここで大事なのは、的を射ぬくということと同時に雅(みやび)であるということなのだ。どちらが大事かといえば、的に当ることより、むしろ雅であるということだろう。なぜなら雅であるとは、この世の花を楽しむ心だからだ……。

ハードカバー本文P61より

 
それを聞いた義清少年(西行)はどう思ったのかと言えば


「矢を的に当て目的は達せなければならないが、雅であることも大事だから、できれば両方をとりたい」

このどちらもと答えた姿に、出家し西行法師という身になっても歌人という道を最後まで貫いた彼の原点があるように思えるのである。

【問い】ところで彼はなぜ出家したのだろう

幼馴染の突然の死、鳥羽院の妻である待賢門院との報われぬ恋の苦しみ、それに政治的な争いなど世間的煩わしさから逃れたいという気持ちも確かにあったろう。
だが現世を出離したにもかかわらず、「現世の成り行きにも目を離さないつもりだ」と言い、また「出離遁世を決意した時には歌にすべてをかける気持ちになっていた」という彼の言葉の裏にはどんな思いが隠されているというのだろう。実はこの思いこそが、当たっても当たらなくとも嬉しい矢を射る行為、歌を詠むという「この世の花を楽しむ」ことに通じるものであり、それこそは一歩離れた所から冷静に世界を眺めることだといえなくはないだろうか。
西行の歌の師、寂念によれば、西行は歌を現世の上に置きそれで現世のすべてを包まなければならないと考えていたという。

 歌とは、たとえばこの花の好さ、月の好さをいかになまなましく閉じ込める器である(中略)人の心の萎えたとき、望みを失った夜、無感動の中で鈍く心が生命力を低下させてゆく日々、人は歌に触れ、その中に色濃く秘められた物の歓喜に、新鮮な山嵐に吹かれるように、はっとして、生命を取り戻すのである。

本文より抜粋、省略

「彼は遠く高野の奥へただ隠遁したのではなく、現世の外に出ることでより豊かに、深く、森羅万象(いきとしいけるもの)の美しさや有難さを味わい、現世に住む人間以上に大きく力強くこちらを包んでくる存在として自分に迫ってきた」と言う寂念の言葉がそれを証明している。
つまり僧侶という立場に身を置くほうがその目的に敵っていたということになるわけだ。そう考えれば彼自身の自覚のあるなしに関わらず、当時の規制の身分としての枠を超えた彼は、「ある種の革命家」と呼ばれてもよいのではないだろうか。


『西行花伝』の主要登場人物系図より


【問い】それでは出家してからの彼はどうだったか 

歌というもので世界を変えたいという思いはさらに募っていった。
朝廷での権力を失い、空虚と隣り合わせでいた崇徳院という上皇との関わりによってそれはさらに深まってゆく。

        

この世は夢のようなもの、何一つ留まるものはない
それを留め得るものは歌であると感じた


私(西行)は崇徳院のなかに、その激しさに、自分の運命のすべてを賭けている人を見たのだ。歌が現実(まこと)でなければ、崇徳院のすべてが滅びてしまう―そうしたぎりぎりの激しさのなかで院は生きておられた。

本文より要約


それは西行自身の思念でもあったと本人も語っている。


しかし崇徳院も策謀のなかで、現実(うつせみ)の戦の擒となった。
崇徳院を救うことが「歌による政治」を救うことになるー。
西行は争乱を回避しようと都の巷を駆け巡った。
それも仏の姿を通せばすべては夢幻にすぎないと知っていたからなのだ。
これが「現世を出離したが現世の成り行きにも目を離さないつもりだ」と彼が言っていたことの意味ではないだろうか。


讃岐へと配流の身となり果てた崇徳院に対しても、西行は「歌による政治」は配流の地でも成り立つと考えていた。これはどういうことなのか。

歌の道は

たかが一首の言葉の連なりというには

あまりに過酷なものを含み

まさに人の生死がかけられている


つまり歌による救済とは、そこに文字通り命を賭けることであり、歌びとにとってはよい歌ができるかどうかに全てがかかっている。それだけの覚悟がなければ歌による救済などはただのたわごとに過ぎない。その大きな使命に較べれば、人の宿命の行方など思いわずらうこともないのだ。

西行は崇徳院にそう伝えたかった。しかし彼は我が身の不運を嘆き続けてついには狂気に陥った。死後も怨霊となり闇のなかをさ迷い続ける崇徳院を慰めるために、西行は讃岐へ向かう。

讃岐に流された崇徳上皇

(新院が歌の心を知らなかった人ならばともかく…歌の心さえ新院が忘れなければ、怨恨の化身となって敵を呪い続けるなど、怒りは何も生み出さないし、そこに救いはない)

「陛下、歌は虚空に立つ人々を支えます
しかし歌もまた虚空に懸かる虹にしか過ぎませぬ
それが人々を支える土台であるのは、世から世へ
それを土台たらしめようとする歌ひとたちがいたからです」



果たして西行の祈りは崇徳院に届いたのだろうか。

(おわりに)
以上見てきたように……僧侶でありながらも歌人として生きる意味を改めて問うなら、その答えは「歌によるこの世の政治(まつりごと)を実現、そして救済する」という目的に結びついているように思われる。僧侶と歌人という両者が西行のなかで溶けあい再び合体すること、それは彼の生きた時代では困難な道であったにしろ、最後まで貫こうとする姿勢が彼独自の生き方を可能にし、だからこそ後世の人々を魅了するものとなっていることは間違いはない。


もし現代に西行が生きていたなら、僧侶いわゆる宗教者としてではなく、思想家(または哲学者)でありながら文学者(芸術家)として生きる道を選ぶのではないだろうか。


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