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目的が、ある。

続けます。
どうも、コーシです。

朝6時。
柄にも無く朝焼けを眺めている。
昨日の19時に初めて到着したこの場所で。
「柄にもねぇな!」とか言う人間がいないのを良いことに思いっきり柄にもないことをしている。
圧巻の朝日だ。

昨晩作ったカレーは今日の分も作ったつもりがもう一滴も余っていない。
カレーをスパイスから作るヤツ”にに成り切って、まぁそれっぽいものは出来た。
「美味しい」もいただきました。嬉しい。

長いドライブの末の大量調理、温泉まで行って狭めの場所で寝た。
疲労が無いはずが無いし現に少し体にふわふわ感はあるが、頭も心もすっきりとしている。
これは野沢温泉のおかげか、”ここ”以外へ来た開放感からか。

昨日の12時からずっと人といたので、私の価値観からするとかなり久しぶりの1人の時間。
こんなに人といて何も苦じゃなかったことは信じられない出来事だ。

やけにスッキリした心のうちを眺めながら、昨日までここを支配していた得体の知れないものの正体について考察する。
何かに何故か悩んでいた。それだけは記憶にある。
おそらくそれは、最近のことじゃなくて、この1年間くらい悩み続けた数多の集大成の様なものな気がする。

せっかくなので辺りを散策していると、一本の梅の木に出会った。
6時30分にちょうどなった頃。
朝日に照らされて、美しく輝く梅の花
しかしその足元はお世辞にも安定感のある見た目とは言えない。
何かをさりげなく避けるように幹を曲げている。

私はその幹に謎の共感をし、花に謎の憧れを持った

さて、一旦、真面目から離れよう。
そろそろセルフで「柄でもねぇな!」と言ってしまいそうだ。
あと、実はそれどころじゃない事態に襲われている。
腹痛と尿意だ。

いやもう、長野に来たエッセイを書いてまで腹痛について書くのももうごめんなんですけど、なんかいつでもここぞで腹痛だか尿意だかと隣り合わせの人生なんですよね。
どうしたもんかなマジで。

尿意だけだったらその辺で済ませるものの、人間は排泄という行為において2者を背負った瞬間に一切の器用さを失う。
幸い、腹痛は病的な印象では無い。
単純に食べたものを、変換し終えて出そうとしているだけらしい。
ここは冷静に、近くの道の駅まで行こう。

車で10分もしないうちに道の駅に到着。
一応言っておくが、間に合った。
道の駅にフリーwifiがあったため、通信制限で返信できずにいた連絡を返す。
半日ぶりにSNSという文明に触れる。
何故か、内容はあまり頭に入ってこない。

古民家に戻って、少し経つと仲間たちが起き始めた。
今日は地域活動に参加する予定だ。
彼らも地域の人たちとしっかり交流するのは初めてらしく、服装にも気合を入れている。

完全に私目線ではあるが、自身の尿意と腹痛から今日という1日が一気に動き出した感じがなんかちょっと恥ずかしい
優雅に朝焼けを見たあの時間はもう遥か昔のことの様だ。
今はとにかくワクワクしている。

集合場所に行くと、地域の皆さんが30人くらい集まっている。
考えてみれば、私は今まで地域の活動に参加した経験にあまりにも乏しい。
20歳にして初めて、それも初めての土地で、地域活動にちゃんと参加する。

私に割り振られたのは、杉の木に囲まれた神社の参道に散り積もった杉の枯葉を片付けるというもの。
花粉症じゃなくてよかったぁ!と心から思う。
私はその中でも、一箇所に集められた枯葉を山道から運び出す、という役割だ。
地域の方と会話をしながらの作業はとても楽しい。

ここで意外だったのが、自分の集中力だった。
なんだかとても楽しくて、充足感に満ちていた。
久々に”なにかのために行動している”気がした。

大学生になってから、自分以外の何かの為にする行動があまりにも少ない。
高校生までは、クラスのために何かできないかなとか、考えていた。

誰かに喜んでもらうとか、おせっかいとか、自己満足とか、そういった後からついてくる自分や他者の感情は抜きにして、なにかをどうにかしようと行動している時間は間違いなく充足感を与えてくれる。

おそらく昨日から1人の時間がなくても平気でいられたのは、水道も電気もないこの場所で生活をする、大きく言えば生きるという目的があったからだ。
そんな生活をして、さらには排泄という大きなタスクは完了した頃に、Twitter(現X)のタイムラインを見て楽しめるわけがない。

自分のためだけの行動には限界がある。
私の様な性格だと、自分を高めたとして出来ないことに目が行くだけだった。
だったら、できることの中で何かをするしかない。
どんなに小さなことでも。

気づけているようで、全く気づけていなかったことだ。
かと言って、東京に戻って人のために何ができるかなんて全く想像がつかない。

活動が終わった頃、一緒に杉の枯葉を集めていた友人が「もう筋肉痛だ!」と言っていた。
「いやそれな」と言いつつも、まだ筋肉痛になっていない自分の身体の衰えに傷つく。
結局、筋肉痛が来たのは2日後、古民家を後にした頃だった。

私を木に例えた時、私の幹なんて今朝見た梅の木よりも歪な形に変形しているだろう。
それでも花を咲かせ、私に似た歪な曲がり方をした誰かに何かが届けば、それも目的と言えるだろうか。

 フクダコーシ しそとツナ缶。
 Instagram @f.kohhhhhshi_(アート投稿中!)
 Twitter @FKohhhhhshi

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