【長編小説】陽炎、稲妻、月の影 #41
第5話 呻く雄風――(11)
ごうごうと唸りを上げる風の音で、俺は意識を取り戻した。
視界の端に、真っ白な白い髪がちらついている。
身につけている服は、今しがた思い出した記憶と同じ、秘色色の着物だ。
自身の身に起きた変化を確認しているうち、足が地面につく。そこでようやく、ここがグラウンドであることに気がついた。
三年五組の教室を出ようとして、あれからどのくらいの時間が経ったのだろう。
状況を把握しようと周囲を見回すと、少し離れたところに〈よくないもの〉が寄り集まった、闇の塊が蠢いていた。まだ、あらかじめ用意していた封印用の霊術は発動していないらしい。この拮抗具合から鑑みるに、それほど時間は経過していないと考えて良いだろう。
であれば、これから俺にできることは――
「お、お前……」
背後から聞こえた声に、俺はゆっくりと振り返る。
その姿が、逢魔ヶ刻に指切りげんまんで約束をした女の子と重なる。
面影を残しつつ、健やかに成長したものだ。そんな感慨深さを覚える。
しかし、呑気に懐かしがってもいられない。
今はとにかく〈あれ〉を少しでも弱らせ、封印してもらわなければならないのだ。
気合いを入れ、集中する為に、まずは。
「アサカゲさん。髪を結わえるもの、貸してくれないかな?」
自分の力の影響とはいえ、あまりに風が強く、長い髪がばさばさと舞い、これでは集中しようがない。だから俺は、すぐ近くに居て、普段から髪を結んでいるアサカゲさんなら、予備のヘアゴムを貸してくれるだろう、と思ったのだが。
「あ、ああ。あるぜ」
目の前に俺が現れたことによほど驚いていたのか、アサカゲさんはこれまで見たことがないくらい、ぽかんとしていた。
それでも流石と言うべきか、すぐに我に返ると、ポケットからヘアゴムを取り出し、俺に手渡してくれた。
「ありがと」
受け取ったヘアゴムで、髪を後ろでひとつに結い、気合いを入れ、集中する。
身体中に、力が漲っていた。
とはいえ、全盛期のそれには遠く及ばない。俺一人で〈あれ〉をどうこうできはしないだろう。今の俺では、せいぜい怪我人が出ないように人間を守れる程度だ。
だけど、それで良い。
人間と神、お互いにできることをやって、この窮地を切り抜けることが先決だ。
「もう大丈夫。大丈夫だからね」
アサカゲさんの頭を撫でながら、〈あれ〉から身を守れるだけの加護を与える。
風が優しく包み込むように吹き抜けた。
先生とその協力者たち、そして、三年五組の教室から固唾を呑んで状況を見守る三人にも、同様の加護を施す。これで、〈あれ〉は近くに居る人間を感知できなくなったはずだ。そうなれば、〈あれ〉は俺を狙う以外の選択肢はなくなる。どれだけ弱体化していようと、神力を持った存在が無防備に立っていれば、喰らいつきに来るだろう。そうやって、アサカゲさんが用意している霊術の発動範囲まで誘導できれば――
「馬鹿野郎が」
アサカゲさんの低い声が聞こえたと同時、背中に強烈な拳を入れられた。
「いっだい! なにすんのさ、アサカゲさんっ!」
「それはこっちの台詞だ! なに自分を囮にしようとしてんだクソがっ!」
「だってそれが一番手っ取り早――いだだだだ! わかった、言う通りにする、するから、俺の脇腹を捩じ切らないでっ!」
とんでもない威力で脇腹の肉をつねられれば、従わざるを得なかった。
俺は自分にも似たような加護を付与し、〈あれ〉から認識できないようにする。
「わかれば良し」
満足そうに頷いたアサカゲさんは、それで、と続ける。
「経緯はわかんねえけど、お前、ろむ……で良いんだよな?」
「うん。……ていうか、誰かもよくわかってない人を殴ったりつねったりしたら、駄目だよ?」
「別に。誰だろうと、オレの前で馬鹿な真似するなら制裁を与えるまでだ。それより、ろむ、今のお前はなにができるんだ?」
「〈あれ〉のちからを多少削いで、霊術の発動範囲まで引っ張ることくらいなら、どうにかできると思う。アサカゲさんが今発動させてる術は、解いて良いよ。あとは俺が引き継ぐ」
言って、俺は右手を地中に向けた。ぐっと上に引っ張り上げるようにすると、地中から蔓状の植物がうぞうぞと湧き上がってくる。それで一気に〈よくないもの〉を覆う。神力の籠められた蔓は、淡く光りながら、実体を持たない〈それ〉に絡みついていく。併せて浄化を行うが、やはり今の俺では、〈あれ〉を消し去るには至らない。
横目に、アサカゲさんが持ち場に戻ったのを確認する。
そう、なにも全て一人でやらなければならないわけではない。今は心強い相棒が側にいる。俺は俺にできることをやって、アサカゲさんにバトンを渡せれば、それで良いのだ。
「……っ!」
獲物を見失った〈それ〉は、ろくな抵抗もせずに蔓に覆われていく。二重三重に蔓で絡め取って、風の力で持ち上げた。
直に触れていないとはいえ、数日かけて肥大化した澱みは、蔓を通じて俺に影響を与えてくる。視界の端で、自分の髪がじわじわと黒くなっていくのが見えた。
終わりのない眠りに引っ張られていく感覚に襲われる。
存在が蝕まれ、消えていく。
見栄を張り切りすぎただろうか、なんて考えている内、自身の口元が引き攣ったように笑みを浮かべたのがわかった。
「――うりゃあ!」
だけど、消える前に、俺にはやることがある。
蔓で絡み取り、風で浮かせた〈それ〉を、俺は思い切り投げた。すると〈それ〉は為す術もなく、アサカゲさんの用意していた霊術の中心へと、投げ込まれていく。
「完璧だぜ、ろむ!」
アサカゲさんは弾むような声音でそう言うと、強く地面を踏み鳴らした。
刹那、場の空気ががらりと変わる。
それまでの清浄さを保っていながら、その矛先が全て〈よくないもの〉に向かっているのだ。攻撃的でありながら慈愛的でもある、アサカゲさんならではの気配で、この場が満たされていく。
いつかの中庭のときのように、ごうごうと風が唸りを上げながら吹き込んでくる。
あれは、俺がその昔、彼女に与えた加護だったのだ。まさか八年経った今もあれが消えていないとは思わなかったが、しかし、あの日から今日まで土地神の存在を信じ続けていたからこそ、加護が消えなかったのかもしれない。
「――封印!」
アサカゲさんの声を合図に、〈よくないもの〉は用意されていた人形に吸い込まれ始めた。
今回封印に使用している人形は、小脇に抱えられるほどの大きさのものだ。アサカゲさん曰く、よほどの大怨霊でなければこれでこと足りる、という、その手の道具としては、かなり位の高いものらしい。
そしてそれは、期待通りに〈よくないもの〉を順調に吸い込み続けていた。
だが。
あと少し、というところで。
最後の悪足掻きと言わんばかりに、〈それ〉は蔓の檻の中で暴れ始めたのである。
俺は急いで蔓を追加し、人形に押し込もうとするが、一点突破を狙ったような強い力に負け。
蔓と蔓の間から、一本の黒い腕が飛び出した。
よく見れば、その腕にはびっしりと目と口がついている。
最後の悪足掻き。
人間を見つけて、食べて、形勢逆転を狙っているのだ。
「ふざけるなよ……」
気づけば、俺は自分でも驚くほど低い声を発していた。
揺れるような足取りで〈それ〉に近づく度、身体が怒りに支配されていく。
祠を壊されたときだって、ここまで腸が煮えくり返るような思いはしなかった。
それもそうだろう。
俺は人間の願いから生まれ、この土地を守り続けてきたのだ。
人間に害為すものを、許せるわけがない。
「この土地の人間に、手ェ出すんじゃねえ!!」
風は勢いを上げ、真っ黒な腕だけに狙いを定めて切り裂いていく。飛び散った破片は、風と蔓を使って浄化する。一片だってこの世に残してなるものか。
「――ろむ!」
と。
俺を呼ぶ声がした。
アサカゲさんだ。
見れば、何枚もの護符を展開させる体勢に入っていた。
そうだ。
今は心強い相棒が居るから、俺一人で無理する必要はないって、自分で言ったんじゃないか。
「……っ」
俺が数歩下がったのを確認するや否や、アサカゲさんは封印を後押しする為の霊術を発動させた。
護符が、ごろごろと雷鳴に似た音を放ちながら、〈よくないもの〉全体を囲い込む。
そうして、アサカゲさんの合図ひとつで、それらは正しく雷となり〈それ〉を人形へと押し込んだ。
闇の塊が、数多の悲鳴と共に、人形に吸い込まれていき。
そして。
グラウンドには、静寂だけが横たわった。
「……お、終わったあ」
緊張の糸が切れ、真っ先に座り込んだのは、俺だった。
久しぶりに触れる地べたの感覚が、余計に疲労感を助長させる。
「これで良し、と」
一方で、アサカゲさんはというと、しっかりとした足取りで人形の元へ向かって行き、念押しするように護符を重ねて貼り、封印を強固なものとしていた。本当に、体力おばけである。
「それで、ろむ。どうしたんだよ、その姿は」
そうして俺の元へやって来たかと思うと、怪訝そうな表情を浮かべて、こちらを見た。
俺は力なく笑って、
「全部、思い出したんだ。これが、俺の本当の姿」
と言う。
ゆっくりと立ち上がって、アサカゲさんの正面に立ってみると、身長は俺のほうが拳ひとつぶんほど高かった。八年前はずっと小さかった女の子と、こんなにも目線が近くなっていた。俺にとっては瞬きをするような時間でも、人間――いや、子どもにとっては、長い時間だったのだと実感する。
「ここの土地神は俺で、八年前にアサカゲさんと会ったのも俺だったんだ」
「それは、つまり……あのときの、お兄ちゃんが、お前?」
半信半疑と言ったように、アサカゲさんは小首を傾げながら、俺を指差した。
俺は、うん、と頷いて、話を続ける。
「ねえ、アサカゲさん。あのときの約束、覚えてる?」
「もちろん。名前を思い出したら、オレに一番に教えるってやつだろ。……まさか、名前も思い出せたのか?」
全部って言ったじゃん、と俺は微笑んで、アサカゲさんに一歩近づいた。
「俺の名前は――」
一音たりとも取り零さないようにと、俺はアサカゲさんに耳打ちした。
すると、アサカゲさんは嬉しそうに目を細め、言う。
「――マシロムグラ。お前の名前は、マシロムグラって言うんだな」
「うん」
震えそうになる声を笑顔で誤魔化しながら、俺はずっと言いたかった言葉を口にする。
「ありがとう」
俺のことを、ずっと覚えてくれていて。
一番に俺の名前を呼んでくれて。
本当に、ありがとう。
「どういたしまして」
アサカゲさんはそう言って、俺の頭を撫でた。
自然と下を向くこととなり、せっかく堪えていた涙が、ぽたぽたと溢れた。
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