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友達が 1人もいない 会話力 ~お喋りな人は実は嫌われてしまう~

 私には友達が1人もいない。そんな甘さ控えめの現実を生き抜いていく上で毎度のこと会話というものに苦しめられる。最低限の会話が必要な場面での言論の自由を抑制したその場しのぎの会話であっても、コミュニケーション能力が雲散霧消した私からすればその難易度は高く会話を続けることができない。そのため普段からお喋りな人間というものへの憧れも持ち合わせると同時に妬む気持ちが2:8ぐらいの割合であったのだがこれまでの私の流した運河を齎すほどの悔し涙が全て蒸発して消え去るほどのある仮説を閃いた。お喋りな人間は実は嫌われるリスクが高い可能性だ。

 かつては外界との接触を避けた鎖国に近い生活を送っていたのだが、そんな生活であると霞しか食うものがない仙人のような暮らしを余儀なくされるため渋々ながら社会に出た。すると当然ながら様々な人たちと出会うのだが大きく分けて人間には2種類に分けられることが分かった。お喋りが好きな人間とお喋りが嫌いな人間だ。

 どうやらお喋りが嫌いというよりも苦手だという人間は今までは私ぐらいだと思っていたのだが世間にはけっこういるらしい。それを知ったときは夜な夜な社会での息苦しさからくる虚空を切り裂かんばかりの咆哮を枕を口に押し当てて相殺する地獄のような時間を味わっているのが私だけではないと知り安堵したのだがそれでも我々の立場は変わることはないと思っていた。お喋りが好きな人間のほうが求められるし人気者。そんな人たちと我々は最高級の魚沼産コシヒカリと前日に余ってカピカピになった防御力の上がった古米ぐらい違うとそう思っていた・・・だがこれを論理的に考えてみたところ逆の可能性が出てきたのだ。

 例えばここに10人のお互い全く面識がない人たちが集まっていたとしよう。5人はお喋りが好き。5人はお喋りが嫌いな人たちだ。どんな場面を想像するだろう?ちなみに私ならお喋りが好きな人たちが固まり、お喋りが嫌いな人たちが明るく喋りあうその5人を尻目に王の亡き古城を思わせる物憂げな佇まいのまま時がたつのを待っているか、その場にある料理を居心地の悪さに襲われたがゆえに正当防衛的暴食にひた走っている様が容易に想像できる。なので心の底からスマホが普及してよかったと思っているのだがなにか気づいたことはないだろうか?

 そもそもこの場でお喋りが苦手な人たちが申し訳なさそうにしている理由はなんだろうか?そもそも誰もなにも喋らなければ各々がスマホをいじるなりなんなりしてなにごともなく時間が過ぎるのにも関わらずなぜこのような目に合わなければならないのだろうか?つまりこの場面でのお喋りが好きな人たちは無意識のうちにお喋りが苦手な人たちを苦しめているのだ。そして先ほど私が行ったことを思い出して欲しい。

大きく分けて人間には2種類に分けられることが分かった。お喋りが好きな人間とお喋りが嫌いな人間だ。

 2種類に分けるということは単純な話人類の半分ずつであるといっても過言ではないだろう。そして今こうしている間にも世界のどこからお喋りが好きな半分の人間がもう半分のお喋りが苦手な人間を傷つけている。つまりお喋りが好きな人間は人類の半分を敵に回している。

 みなさんの周りにもお喋りな人間はいませんか?

 ひょっとしてその人のことが嫌いなんじゃありませんか?

 そしてその嫌悪感を自分が荒んでいるかだらとマイナスに考えていませんか?安心してください。


そいつは人類の敵です。

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