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「どんなに辛い経験を重ねても、サッカーが僕の人生を楽しくさせてくれる」椎名伸志/カターレ富山

この記事は「旅とサッカー」というスポーツツーリズムをコンセプトとしたWEB雑誌「OWL magazine」のコンテンツです。


青森山田高校サッカー部、歴代最高のキャプテン


2009年、第88回全国高校サッカー選手権大会の準々決勝を前に、青森山田高校の黒田剛監督が、キャプテンとして最高の評価を送った選手がいる。

第88回大会は、山本大貴選手が得点王となり、優秀選手には宮市亮選手や長澤和輝選手といった、サッカーファンには馴染みある選手たちが名を連ねた。そして、この年の青森山田高校と言えば、2年生に柴崎岳選手がいた。

その柴崎岳選手とボランチコンビを組んでいたのが、青森山田高校サッカー部史上最高のキャプテンと評された椎名伸志選手だ。

高校サッカーや大学サッカーが好きな方は、その名前を耳にした事があるのではないだろうか?椎名伸志選手選手は抜群のリーダーシップを発揮し、選手権準優勝という輝かしい成果をもたらした。しかし、その選手権の舞台裏では、怪我との過酷な戦いが繰り広げられていたのだ。

前十字靭帯断裂


選手権の約4ヶ月前、椎名伸志選手を悲劇が襲った――。


「何が起こったか分からなかった……。これじゃ選手権は無理だ……。」


インターハイ直後の石川ユースフェスティバルに参加中のことだ。怪我をした瞬間は、何が起こったのか分からなかった。ただ、選手権が無理なことだけは、自身の膝の状況を見て感じ取ることができた。「プロサッカー選手になるためには、ここからの結果次第だな。」まさにそんな話が上がってきた矢先の出来事だった。

全治約8ヶ月という大怪我に、誰もが椎名選手の高校サッカー選手権への出場は絶望的だと思った。しかし、決して諦めなかった。

過酷なリハビリの日々を耐え抜き、迎えた約4ヶ月後の全国高校サッカー選手権。緑のユニフォームに袖を通し、キャプテンマークを巻いた椎名選手がピッチに姿を現したのだ。誰もが驚く奇跡の復帰だった。

選手権に対する誰にも負けない熱い気持ちが、限界を超えた自身を突き動かす。決して諦めることなく戦い続け、強豪青森山田高校サッカー部を牽引するキャプテンの姿は、当時高校サッカー選手権を見ていた沢山の人々に感動と勇気を与えた。

(当時小学4年生の男の子が、高校3年生の椎名伸志選手と出会い、その後青森山田高校に進学して全国優勝を果たす)

 私が流通経済大学を卒業してから、椎名伸志選手と話す機会があったのは、椎名選手が4度目の前十字靭帯断裂の大怪我を負った後でした。松葉杖をついた痛々しい姿で、淡々と自分の状況を話し始めました。

「この怪我は、自分が変われる最後のチャンスだと思ってる。」

大怪我をしているにも関わらず、前向きに力強く話す姿を、しばらく忘れる事はできませんでした。椎名選手の口から放たれる言葉の一つ一つから、椎名選手が抱えている想いが、手に取るように伝わってきます。

私は、魂がこもった言葉を次々に吐き出す姿を見て思いました。「椎名選手の言葉を沢山の人に伝えたい。沢山の人に存在を知って貰いたい。私自身、もっと話を聞いてみたい」と。その時から、椎名伸志選手へのインタビューは、私自身の目標となりました。

今回、椎名伸志選手とカターレ富山のご協力を経て、私自身の夢であった椎名選手へのインタビューが実現しました。最後の選手権で何を思って戦い続けたのか、キャプテンとして大切にしていたこと、サッカー選手になってからの苦悩など、当時を振り返りながらお話しして頂きました。

前十字靭帯断裂という大怪我を何度負っても、「サッカーが大好き。サッカーがしたい。」と目をらんらんと輝かせて語る椎名選手。1人でも多くの人に知って頂きたい、読んでいただきたい。そんな思いを込めて、今まで以上に気合を入れて書いたので、是非最後まで読んで頂けたらと思います。

椎名伸志
1991年10月15日生まれ・北海道札幌市出身
2007-2010 青森山田高校
2010-2014 流通経済大学
2014-2015 松本山雅FC
2015-現在 カターレ富山
Twitter : https://twitter.com/shiinanobuyuki
Instagram : https://www.instagram.com/shiina.nobuyuki_official/

椎名伸志選手によるオンラインサロン
現役Jリーガー椎名伸志official salon【富山を盛り上げるのは俺だ】
 両足合計で前十字靭帯を4回断裂するという大怪我を負い、一時は引退の文字が頭を過ぎった事もあるという椎名選手。現在は、カターレ富山でプレーをしながら、自分の経験を活かし、学校へ行くことが難しくなってしまった子供たちへの支援活動を中心に、ピッチ外でも積極的に活動しています。
 私も支援させて頂いているのですが、頻繁に更新されるアクティビティには、椎名選手の活動報告の他、石川直宏さんとの対談などの楽しめる内容が盛り沢山です。移籍の真相や、選手同士の対談は「そこまで語って大丈夫!?」というのも存在していて、サービス精神旺盛な内容となっています。更新頻度の高さと、充実したコンテンツ内容から椎名選手の本気度が伺えます。興味がある方は是非一度、覗いてみてください。

全てはプロ選手になるために。サッカー人生の大きな決断

ー 前半は、椎名選手がサッカーを始めたきっかけや、学生時代の事を中心にお伺いしたいと思います。まずは、サッカーを教えてください。

椎名選手:6歳頃に近所のお兄ちゃんがクラブチームでサッカーをやっていて、その方のお母さんがとても熱心に誘ってくれたんです。体験に行ったんだけど、そこからは、ひたすらサッカーに夢中。(笑)お父さんが野球をやっていたので、ボールを投げるのも、蹴るのも好きだった。とにかく小さい頃はボール遊びが好きだったね。何にハマったんだろう……?当時の記憶ってあんまり鮮明にないんですよね。(笑)リフティングにしろキックにしろ、やればれるだけ上達していく感覚が楽しかった記憶があります。

ー その後、高校生から親元を離れ、青森県の青森山田高校に進学する訳ですが、中学校で道外に進学することを自分で決断したことは、後に振り返ると自分のサッカー人生の中で1番大きな決断だったとお聞きしました。中学生でそういった、人生の大きな決断をすることは中々できないことだと思うのですが、どんなことを考えて決めたのですか?

椎名選手:小学校のクラブチームの3学年上に原田圭輔さん(元ベガルタ仙台)がいたんです。小学校の頃からナショナルトレセンに選ばれるぐらい、めちゃくちゃ注目されていて、中学卒業後はサッカーの名門校の藤枝東高校(静岡県)に進学することになったんです。その姿を間近で見て、北海道にも強いチームはあったけど、本州のよりレベルの高いところでやりたいなって気持ちが強くなったんですよね。青森山田を選んだ理由ですか?青森山田高校は毎年全国大会に出場していたという部分が1番ですが、北海道から近いというのも決め手の1つでした。

ー コンサドーレ札幌のユースに進むことは考えなかった?

椎名選手:コンサドーレに少なからず憧れはありました。だけど同い年に、ポジションも同じ中盤で、左利きの古田寛幸っていうスーパースターが居たんです。Jクラブのユースに進むと、そのクラブのトップチームに上がれる人数ってそんなに多くはなくて……。高校サッカーって全国大会に出ると、沢山の人に見てもらえるんですよね。そのほうがチャンスは広がるなって考えて、高校サッカーを選びました。

ー 自分で考えたの?普通の中学生が自分の将来をそこまで考えるのは、ちょっとすごいなって。(笑)

椎名選手:いやもう、本当スーパースターで、無理だって思ったんだよね。(笑)当時の実力的にも自分が劣るっていうのは分かってたから。そんな彼が、ユースに上がって絶対にトップに上がるだろうって言われている中で、その環境に飛び込方が勇気がいることだと思ったんだよね。

ー ご両親に、道外に進学するって伝えた時の反応は?

椎名選手:両親は薄々感じ取っていたと思う。同じクラブチームの注目されてた先輩が、海を渡って道外の強豪校に進学するっていう選択をしたのを目の当たりにしてから、僕もそういうルートを意識し始めている事は、分かっていたのかなって。両親は、サッカーを続ける事を全面的にバックアップしてくれて、本当に尽くしてくれてました。だからこそ、自分の決断に関してまっすぐ受け止めてくれたと思います。

ー 高校を卒業後は、進学ではなくてプロ志望だった?

椎名選手:そうですね。早い段階で、進学先の流通経済大学からの誘いはあったんですけど、高校を卒業したらプロに進むつもりでした。けど、3年生の夏に怪我をしてしまったので……。そのまま、流通経済大学に進みました。

ー 夏の怪我前に、Jクラブからのオファーはあったんですか?

椎名選手:ないない!全然!もう、ここから夏のインターハイでの成績次第だなって話は言われていましたね。夏の全国大会で結果を残して、そこからだなって。だた、インターハイの直後に大怪我してしまったんですよね……。

ー 全国高校サッカー選手権準優勝って結果を残していて、仮にその怪我が無かったら、そのままプロに行けてたなっていうのは思う?

椎名選手:どうなんだろう?そこは、本当全然分かんない。(笑)けど、高校卒業したらプロに行きたいっていう強い気持ちはあった。ただ、実力が伴っていたかと言えば、うーん……。どうなんだろう。ただ、自信はあった!うん。間違いなく自信はありましたね!!

ー 本来ならば、高校3年生の選手権で結果を残して、「Jクラブからオファーを」という未来を描いていた訳でしたが、大学進学を決めたのはいつですか?

椎名選手:夏の怪我の直後ですね。自分の中で、高卒でプロに進むっていう道は厳しい状況になったので、大学に進学してJリーグを目指そうと思いました。

ー 流通経済大学からは、早い段階でオファーをもらっていたということでしたが、流経大以外の選択肢というのは自分の中でありましたか?

椎名選手:全く無かったですね。環境やレベルも抜群だったので!

ー サッカーをする環境を1番に考えて大学に入学して、恵まれているなって実感した部分はどんなとこでしたか?

椎名選手:寮やグラウンドはもちろん素晴らしかったんですが、怪我を抱えて入学した僕にとっては、プロフェッショナルなトレーナーがいた事は心強かったです。2018年のロシアW杯でコンディショニングコーチを努めた小粥智浩先生が熱心にサポートしてくれました。

最後の選手権に賭けた想い

ー ここからは、青森山田高校時代についてお伺いしたいのですが、進学してみて、どうでした?レベルが高いって驚いたのか、結構やっていけそうだなって感じたのか。

椎名選手:レベルたかっ!!!てなりましたね。(笑)うまく表現できないんですけど、入学して早々衝撃的でした。

ー 2学年上に、藤本憲明選手(ヴィッセル神戸)、1学年下に柴崎岳選手(デポルティボ・ラコルーニャ)などがいますよね?

椎名選手:そうそう。もう、本当に先輩も同い年も後輩もみんな能力が高すぎて、驚きました!北海道では選抜にも入ってたんだけど、いざ練習が始まった時に、技術的な能力だけじゃなくて、身体的な能力とか全てを含めて「うわ、ヤバいところに来たな」って入学して早々に感じたのは、はっきりと覚えていますね。(笑)

ー 青森山田高校のサッカー部は、何チームかに分かれて活動するのですか?

椎名選手:AとBですね。僕らの時は、2チームでした。僕は、1年生の頃からAチームに入れてもらえていましたね。

ー 青森山田高校のサッカー部は、やっぱり厳しいんですか?

椎名選手:規律もしっかりしていたし、今思い返せば厳しかったってことになると思います。当時は初めての事ばかりだったから、これが普通なんだって思ってやっていました。改めて振り返ると、人間教育の部分とかも含めて当然の厳しさだったと思います。

ー 高校自体が厳しかったんですか?それとも、サッカー部は特別?

椎名選手:学校自体が厳しかったですね。その中でも、サッカー部は何事も1番であれと常々言われていました。自分たちも、そうでなければいけないって思ってました。青森山田は、1クラス全員がサッカー部なんです。朝の点呼が終わったら、教室の掃除から始まります。みんなが登校している中、僕らは掃除をしていましたね。窓を磨いたり、掃き掃除をしたり、そういうのを率先してやっていました。

ー 青森山田高校のレベルの高さに驚きながらも、椎名選手は高校サッカー選手権という大舞台に1年生から出場されていましたよね?実際に選手権のピッチに初めて立った時の気持ちは覚えていますか?

椎名選手:そうですね。1年生から出させていただいていました。正直あんまり覚えていないんですよね。唯一覚えているシーンは、ゴール正面からのフリーキックを外したことくらいで……。

ー 選手権って、高校サッカーの中でも1番注目度が高いというか、高校生の夢の舞台といわれるような大会だけど、そこを目指して青森山田に進んだ訳じゃなくて、選手権はあくまでプロになるための「1つの通過点」だった?

椎名選手:「プロになるために、青森山田に進学する」っていう大きな決断だったから、通過点として捉えていたかもしれない。ただ、高校生活を送っていく中で、選手権っていう大会の存在が僕の中で、1年、2年って年数を重ねるごとに、とても大きなものになっていったんですよね。だからこそ、3年生の時は多少リスクを背負ってでも、全てを出し切って終わりたいって気持ちでいっぱいだったかな。

ー そんな中で、高校3年生の一番大切な時期に怪我をしてしまったと。その時どんなことを考えていたか覚えてますか?

椎名選手:最初は、何が起こったか分かんなかった……。その時は、前十字靭帯って何?そう思いました。それでも、とにかくヤバいんだろうなっていうのは分かりました。膝がパンパンで歩けなかったので。次の日病院にいく前に、全治8ヶ月の怪我だってことをなんとなく知ってしまって……。これは選手権無理だなって……。

 青森山田のサッカー部と繋がりのあるトレーナーの方で、森本貴幸選手が前十字靭帯の怪我を負った時に早期復帰を手助けした山本晃永トレーナーが居たので、その人にお願いすることになりました。

ー その方の手助けを経て、選手権の本大会には間に合ったわけですけど、実際はかなりの無理矢理な感じはあった訳ですよね?

椎名選手 : どうかな……。本当に最後の選手権に賭けたいっていう、強い思いが自分を突き動かしていたんですよね。少しでも可能性があるならお願いしますって。だた、周囲では本当に大丈夫か?と言われていたみたいですが、当時はその声が自分の耳まで届くことはありませんでした。

ー 本大会までの復帰の道のりは?

椎名選手:選手権の青森県予選は1試合も出ていないですね。本大会の2週間前くらいの練習試合で10分くらい復帰して、本番前の最後の練習試合で45分出て、そのまま本番に挑みました。

ー 選手権は、初戦からフル出場?

椎名選手:初戦は、80分間くらいの出場でした。ただね、練習試合の時からプレーが全然良くなくて……。大怪我して長い期間離脱していたから当たり前の事だと思うんだけど、監督からも「これだったら、2学年下の優人のが全然いいぞ。」って言われるくらいだったので……。
※2学年下の差波優人(現東京武蔵野シティFC)

ー それは試合中に?

椎名選手:試合が終わった後ですね。

ー それを言われた時の気持ちって覚えてますか?勝手なイメージですけど、あんまりそういう事に対して動揺したりとかするタイプじゃなさそうだなって思うんですけど……。

椎名選手:いやいや、でもその出来事に関してはパフォーマンスが悪すぎて「そりゃそうだよな」って。(笑)ただね、その時に「こんな状態でも、キャプテンの自分にしか出来ない事が絶対にあるはずだ」ってのは同時に考えていました。雰囲気を変えることの出来る選手っているじゃないですか。例えば、鹿島アントラーズの小笠原満男選手は、チームの精神的な支えになる存在だと思うんですけど、キャプテンになった時に自分もそういう存在にならなければなっていう思いがありました。なので、プレーが悪くても、自分が存在する意義をどうにか示さなければいけないなっていうのは強く思っていました。

選手として、キャプテンとして

ー 大怪我を負いながらも、キャプテンとしてサッカー部を率いて、全国大会で準優勝という素晴らしい結果を残しました。黒田監督からも「過去最高のチームリーダー」と評価されていましたが、自分の中で描いていた理想のキャプテン像はありましたか?

椎名選手:理想のキャプテン像があったというよりは、自分が1年生の頃から歴代のキャプテンの姿を見ていく中で、いい部分だけでなく、改善できる部分を自分なりに考えて、こうしていきたいなってのは常に考えていましたね。1年生の頃から、なんとなくは3年生になったら自分がキャプテンをやるんだろうっていうのは思っていたので。

ー 1年生の頃から2年後の事を考えていた?

椎名選手:そうですね。1年生の頃からトップチームに帯同させてもらってたのが1番の理由なんだけど、そういう環境に身を置いている分、自分がやらなきゃいけないっていう思いはありました。だから、自然と自分がキャプテンをやるんだろうなって思って行動していましたね。
 人数の多い組織を統率するにあたって、自分とよく関わる人からの信頼関係だけでは動かないなってのは思っていました。やっぱり、Aチーム、 Bチームって分かれているとどうしてもBチームの選手とは関わりが薄くなってしまったりするので、そこは自分から意識的にコミュニケーションを取るようにしていました。
 後は、私生活も信頼してもらえる人間になるということも、普段の生活から意識していましたね。自分と同じ思いを持った仲間や、自分の声を拾ってくれるチームメイトを巻き込むようにっていう事も意識していました。キャプテンとして、自分がトップに立つけれど、それだけでは大きな組織は動かないと思っていたので、周りを巻き込んでいく意識はしていました。そういった細かい部分を積み重ねて「キャプテン椎名」が生まれましたね。(笑)

ー なるほど。先ほどから椎名選手のお話をお伺いしていると、中学生、高校生の頃から大人びているというか、先の未来を見据える力に長けているなっていう印象で、目先のことで精一杯だった自分の学生時代の頃と比べるとすごいなって思うんですが……。

椎名選手:僕も目先のことで精一杯ですよ。特に高校1年生の時なんて!ただ、先を見て行動できるようになったのは自然となのかなって。環境や人が与えてくれた影響が大きいと思います。中学生の頃に自分の決断で親元を離れるって決めた事は、その後の人生に与えた影響も大きかったと思う。覚悟があったし、3年間苦しい事があっても、親には1度も相談しなかった。相談して、心配かけるのは迷惑だと思ってた部分もあったんだけど、それ以上に自分で決断して親元を離れたわけだから、そこからは何があっても自分で進んでいくっていう気持ちが強かった。

ー 流通経済大学でもキャプテンでしたよね?

椎名選手:一応キャプテンでした。ただ、3年生の11月終わりに、再度前十字靭帯を損傷してしまって、復帰したのが翌年の10月だったので、ほとんどキャプテンマークを巻いて試合に出たっていうのはないですね。インカレくらいじゃないかな?

プロの壁を前にして見つけた気付き

ー 2度の怪我を乗り越えて、プロサッカー選手の夢を叶えたわけですが、プロ1年目に入団した松本山雅からのオファーっていうのは、いつごろ届きましたか?決まった時の心境はいかがでした?

椎名選手:ちょっと記憶が曖昧なんですけど、2回練習参加してオファーをもらいました。インカレ前に頂いたと思います。正直、自分はどのくらい出来るのかって、もう少し様々なチームの練習に参加してチャレンジしてみたいなって気持ちはもちろんありました。けど、コーチの大平さんから「贅沢を言うな。」っていうアドバイスもあったので。(笑)怪我から復帰したての状況で、すぐに声を掛けていただいた事は、本当に嬉しかったです。松本山雅がJリーグに入って3年目の頃で、自分自身がチームの事を良く分かっていない部分はあったんですけど、入団して凄さが分かりました。

ー ここからは、実際にプロになってからの事をお伺いしたいと思います。入団してから、松本山雅の凄さを実感したという事ですが、それはどのような部分ですか?

椎名選手:松本名物のサポーターです。地方のクラブで、これだけの人数が入って応援してもらえることって中々無いことだと思います。同期入団の選手が、田中隼磨さんという大先輩だったんですけど、そういった先輩の存在もあり、プロ1年目に松本山雅に在籍できた事は、自分にとって学ぶ事も多かったので、松本を選択してよかったなと思いました。

ー 幼い頃から目標だったサッカー選手として生活を始めた訳ですが、自分の思い描いていた部分とのギャップなどはありましたか?

椎名選手:正直、もう少しやれると思っていましたね。だけどプロの壁は、自分が思っていたよりもずっと高かったです。松本山雅は、今まで自分が取り組んできたサッカーとは正反対のスタイルだったので、自分が生き残るために考えさせられる事が多かったです。プロ生活というよりは、サッカーのスタイルの部分でのギャップはありました。

ー プロとしてやっていけるっていう手応えは、どのくらいで掴めましたか?

椎名選手:新卒で松本山雅に入団したんですけど、その手応えは確実に掴めないまま、1年半で退団することになりました。自分を見失っていましたね……。そこから、現在のカターレ富山にレンタル移籍をすることになりました。そんな状態での退団だったんですが、今まで積み上げてきたものが、自分の資産として残っている事にチームを出てから、初めて気がつきました。例えば、自分のプレーの幅が広がっているなとかっていうのも、その時にやっと気が付く事ができました。

ー それは、環境を新しくしたというか、0というわけではないですけど、また新たな環境で自分のことをアピールしていくうちに気がついた?

椎名選手 そうですね。チームとして取り組んできたことや、個人的に取り組んできたことを発揮する場である公式戦では、松本ではほぼ途中出場しかできなかったんです。そんな中で、本当に自分に身に付いているのかを感じる事が中々難しくて、自分自身答え合わせができない状態でした。ただ、移籍の選択をしたことにより、試合に絡める機会が増え、試合中に今まで自分が取り組んできた成果を発揮する事ができた。その時にやっと初めて、自分が積み上げてきたものが、身に付いてるんだなって感じる事ができました。

ー 出場機会を失った上での移籍という、マイナスの状態からの移籍でしたが結果としてその選択が自分にとってプラスになったという事でしょうか?

椎名選手:行ってから初めて、良かったって思いました。行く前までは、やっぱり環境っていう面ですごく拘っていた部分がありました。J1のクラブに所属し続けたいというか……。もちろん、まだまだ自分はやれるって思っていたのもありました。だた、力不足でチャンスを掴めずにいた時に、選手として試合に出場する事も大切だと思ったので移籍に踏み切りました。富山で活躍して松本に戻ってやるって気持ちは持っていたんだけど、改めて試合に絡める楽しさだったり、選手としての自分の成長を実感する事ができたので結果としてすごく良い機会を、カターレ富山から頂いたなと思っています。

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運命を受け入れる”覚悟”

ー ここからは、怪我についてお伺いします。合計4回の前十字靭帯の怪我していますが、学生時代の2回は、高校3年生と大学3、4年生にかけて。どちらもプロに進むためには、いちばん大切な時期の怪我ですよね?

椎名選手:高卒でプロに進む事は難しいって思ったので、大学進学を選択したんですけど、大学4年生の時はプロにいけるって信じていました。今思うと、本当に根拠のない自信なんですけど、絶対にプロに進めるって信じていましたね。(笑)

ー 普段から椎名選手が努力を積み重ねてきたからこそ、自信満々だったんですね!プロに入ってから3回目の前十字靭帯断裂。その時の心境をお伺いできますか?

椎名選手:3回目の時は、接触だったんですよね。キーパーと接触してしまって……。自爆なら諦めが付くんですけど。正直かなり落ち込みましたね。だけど、心の中ではまだ何とかなるって希望は持っていました。

ー 4回目が1番きつかったですか?

椎名選手:そうですね。でも、回数ってあまり関係ないと思っています。その都度キツイというか、1回やった人も4回やった人も辛さって一緒だと思うんですよね。辛さは忘れないし、その時の悔しさっていうのは心に残っている。同じ怪我を繰り返してても、やっぱりその都度1番キツイ……。怪我はしないに越した事はないので、1回目と4回目を比べるとって言い方も変ですけど、キツさも辛さも変わらない。ただ、その時自分が置かれている状況が違うだけなんですよね。怪我にも、重さに違いはあったりするけど、悔しい気持ちとかは変わらないです。あれ?質問なんだっけ?(笑)

ー 1回目と4回目で心境の変化はありますか?っていう問いに対して、違うのは置かれている状況だけで、辛さや悔しさに違いはないってお話ですね。

椎名選手:そうです!それが俺の答えですね。

ー noteを拝見させていただいたんですけど、その中に「僕は、運命を受け入れる“覚悟”があるからこそ楽観的になれると思っている。」と書いてありますが、考え方の変化というか、そう思ったきっかけはなんだったんでしょう?

椎名選手:死ぬほど悩んで落ち込んで……。ただ、それだけではどうする事も出来ないと気がつきました。もちろん色んな方からも、沢山のアドバイスも頂きました。その都度、怪我をしてしまった事を受け入れないと前には進めないという事は、なんとなく分かっていました。けど、その事に関してしっかりと向き合って、考え方が固まったのは、この4回目の怪我の時ですね。

ー 前十字靭帯の怪我は、復帰までもかなりの時間を要しますもんね……。シーズンのほとんどを棒に振る可能性が出てきてしまうって、そう簡単には受け入れられる事ではないですよね。

椎名選手:今までって、サッカーをしながら夢中で夢を追いかけて、サッカーが全てだったんですよね。もちろん、今でも夢は追いかけ続けてるんですけど。ただ、それだけが人生の全てではないという事に気がついたって意味で「運命を受け入れる」って表現を使い始めたのかもしれないです。「なるようになる」って言葉を親戚のおばちゃんから貰ったんです。

叔母からの教え「なるようになる」


椎名選手:親戚のおばちゃんって、嫁ぎ先ですごく苦労した方なんですよね。義理の兄妹との折り合いが悪かったり、身内の不幸という不慮の事態に見舞われたりして……。自分が原因で引き起こった事じゃない事まで、責められて精神的にも参ってしまっていた。ただ、同時に自分の本当の姿を見てくれてる人は見てくれてるんだって事や、辛い時に寄り添ってくれる人もいるんだって事に気がついた出来事でもあったらしいんです。

ー 自分が辛い状況の時こそ、見えるものってありますよね。

椎名選手:そこに気がついた時に、「起ってしまった出来事に対して、毎日ネガティブ悩んでいてもしょうがないなって振り切れた。悩んでも人生はなるようにしかならない、見ていてくれる人は必ず居るから、少しでも前を向こう!」って自分の人生を受け入れた時の経験を話してくれたんですよね。

ー それは怪我をした時に?

椎名選手:そうですね。何回目かちょっとはっきりとは覚えてないんですけど、僕が怪我をした時です。その話を聞いた時に、上手く言い表せないけど、ものすごく心に響いたんですよね。辛い経験をしたおばちゃんから「なるようになる」って言葉を頂いて、ずっと自分の中で大切にしてきたんです。
 改めて、自分のキャリアを見返したり、人生を振り返ったりする上で、自分自身では怪我を受け入れてきたつもりではあったけど、やっぱり外に目が向いてしまいそうになる事もあって……。原因を自分じゃなくて、外に向けてしまいそうになったりしたんですよね。でもやっぱり、自分自身が目を逸らさずに怪我と向き合わないといけないなって思い、受け入れることの大切さを再確認する意味で、noteを書きました。

プロ選手としての「評価」と「イメージ」

ー 高校時代に、怪我を押しての出場に否定的な声も有った話をしていましたけど、今って自分に対して向けられる、様々な声って聞こえますか?

椎名選手:聞こえるね。余裕で聞こえてきます。(笑)直接言われることもありますよ。現在はネットが当たり前のように日常生活に組み込まれていて、誰でも簡単にいろんなことを発信する事が出来る。僕はサッカー選手という、良くも悪くも目立つ職業なので、調べようと思ったら調べることが出来るじゃないですか?いろんな人が自分に対して下す評価っていうのは、聞きたくなくても聞こえてきてしまう環境ってのは出来上がっていますね。

ー 人前に立つアスリートってあんまりマイナスなイメージが見えないというか……。そういうので落ち込んだりってしますか?

椎名選手:同じ人間だからね。(笑)ただその時に、強がる自分と、めちゃくちゃ弱い自分っていうのが存在してて、カッコつけていうと、人前に立つ時は「サッカー選手の椎名伸志」を演じてるんですよね。高校生の頃の影響が大きいのかもしれないんだけど、キャプテンとして、サッカー選手として、こうでならなきゃいけないっていうのが自分の中ですごくあります。外からの自分の評価に対する声に落ち込んでしまう自分は当然いるけど、外に出たらそういうのは見せないようにしていますね。

ー 評価されて落ち込むって生きていると誰にでも起こりうる出来事というか、私は1週間くらい落ち込むタイプなんですけど、プロのメンタリティというか、椎名流の乗り越え方みたいなのはありますか?

椎名選手:見せてないだけで、僕も当たり前のように落ち込みますよ。解決策……。なんていうかな、言葉が出てこない。大学時代まで遡るんですけど、八巻楽(横浜F・マリノス スクールコーチ)と仲が良かったんです。楽に言われたんですけど、「素の椎名を知っている同期からすると、外に出た時ってもう1人の椎名に見える。」って。多分その時は、キャプテン用の人格になってるんだけど、寮の部屋に戻った時に心許せる仲間の前では素の自分になる。上手く自分の中で使い分けができていたから、弱音の吐きどころがちゃんと有った。ショックな出来事にぶつかった時、自分の中で消化できない部分を吐き出す場所を持つ事は大切だと思う。悩みを聞いてくれる仲間の存在は大きいですね。だけど、全員が僕みたいに悩みを話せる人を見つけられるわけじゃないんだなって思うけど……。自分なりに信頼できる存在を見つける事はとても大切な事だなって思いますね。

ー 信頼できる人の見分け方みたいなのってありますか?

椎名選手:突然パッと現れたりするものではないと思いますね。本当に小さな約束を守ってくれたり、これを悩みって言って良いのかな?って思う小さな悩み事に対して真摯に受け答えしてくれたり、そういう事の積み重ねで信頼関係って出来上がっていくのかなって思います。自分の悩みを話す上で、結構尻込みしてしまったりする事があると思うんですよね。

ー そうですね。この人に話して良いのかな?とか、迷惑じゃないかな?とか考えてしまうことって結構ありますね。

椎名選手:周りにいる人の中で、小さな悩みを話してみてその時のリアクションを見てみる。その時に、この人だったらもう少し深い悩みを相談しても良いかなって思える人が出てきたりすると思う。時間がかかったり、しんどいかもしれないけど、小さなことを積み重ねて、自分なりに信頼できる人や場所を見つけておく事は大切だなって思いますね。信頼できる人の存在が、何かあった時に心の支えになりますね。あとは気にしない事も大事!

ー 気にしない事ですか?

椎名選手:仕事上、沢山の人に色々言われる事は、もちろん覚悟してます。批判と誹謗中傷は違うし、実際そう言ったものもないとは言い難いです。ネットが当たり前にある時代なので、僕らに限ったことではないですよね。なかなか難しい事だとは思うけど、見ない事も大事な事だと思います。先輩達からも言われてきたりしますしね。

ー というと?

椎名選手:インターネットでエゴサはするなって。(笑)

ー エゴサーチ!自分の名前を検索するアレですね?椎名選手はエゴサするんですか?

椎名選手:しないしない!先輩の教えだからね!(笑)

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富山を盛り上げるのは俺だ!

ー 椎名選手のオンラインサロンで、「富山を盛り上げるのは俺だ!」と堂々と宣言を掲げています。どんな経緯があったんですか?

椎名選手:今までを遡ってトータル4度のうち、2度は富山に来てから怪我をしてるんです。半年以上プレーできていない自分と契約してくれているクラブに対して恩返しがしたいって思ったんです。復帰して結果を残すことは当然なので、それ以外のところで、クラブや富山を盛り上げることができないかなと考え始めたことがきっかけです。

ー 活動内容は主にどんなことをされているのですか?

椎名選手:縁があって学校へ行けなくなってしまった子供達への支援を行っています。自分の今までの経験が、子供達にとって少しでも力になればという思いで始めました。

ー 椎名選手がサッカーを教えたり

椎名選手:実は、サッカーは全く教えてないんです。サッカー選手がやるってなると、サッカーを教えるってイメージですよね?不登校の子供達の抱える問題の一つに、運動不足が挙げられているんです。「俺、教える事はできないけど、一緒に遊ぶ事なら出来るよ!」って思って。もちろん、遊んでいく上で学びに繋がるような事を取り入れているんだけど、大切なのは子供達が楽しく体を動かすこと。そういうところから、タイトルを「椎名と一緒に遊ぼう」にしています。サッカーをしようとかにしてしまうと、入り口が狭まってしまうかなっていうのもあるので。去年はみんなでスイカ割りもしたし、水鉄砲もした!!

ー ピッチ外での活動をしてみていかがでしたか?

椎名選手:地域に出てみて、サッカー以外でも活躍できる場所っていうのがあるんだなっていうのを感じる事ができました。自分たちのような存在を必要としてくれる人たちが沢山いるんだなって事は、この活動を通してめちゃくちゃ感じましたね。富山の街にはとても思い入れがあるので、自分自身のとっても掛け替えのない経験になっています。

ー カターレ富山に現在在籍している選手の中で、在籍年数が最も長いのが椎名選手?

椎名選手:そうですね。6年目になります。プロに入ってから、2チームしか所属していないんですけど、決して短くない年月を富山で過ごさせていただいているので、やっぱり思い入れがありますね。6年間で2度の怪我があったので、クラブに対する感謝の想いは、言葉では言い表すことができないです。実際に今回の怪我は、引退の文字が頭をよぎったんですが、背中を押してくれたサポーターの存在も大きかったです。弾幕を作って頂いたり、メッセージを頂いたり。だからこそ、自分がカターレ富山に何かを残したいっていう思いが強くありますね。やっぱり、いい時って人は集まってくるんですよね。でも、ブームが去ったり、自分が不調の時に掌返されるというか……。

ー 椎名選手もそういう経験ってありますか?

椎名選手 : めちゃくちゃありますね。調子がいい時や、注目されている時って何もしなくても、人が集まってきたりする。けど、本当に大切にしなければいけないのって、自分が苦しい時に寄り添ってくれた人達だと思うんですよね。怪我っていう本当に苦しい時期に力を添えてくれた、カターレ富山に関わる人達への恩返しの想いっていうのはめちゃくちゃあります。

ー 最後、そんな椎名選手の今後の目標をお願いします。

椎名選手:これだけお世話になったクラブやサポーターに対して、やっぱりプレーヤーとして結果で恩返しがしたいです。まずは、 J2昇格。後は、ここまで大怪我をしても好きだって思えるサッカーに対しても、恩返しがしたいなって思っています。大きくいうとサッカー界かな?どんな形で恩返しができるかはわからないけど、自分の人生を楽しくさせてくれてのがサッカーなので、サッカーにも恩返しがしたいです。

ー ありがとうございました。

椎名伸志選手
Twitter : https://twitter.com/shiinanobuyuki
Instagram : https://www.instagram.com/shiina.nobuyuki_official
カターレ富山
HP : https://www.kataller.co.jp/
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椎名選手、カターレ富山広報ご担当者様
お忙しい中、ご協力ありがとうございました。

この記事は「旅とサッカー」をコンセプトとしたウェブ雑誌「OWL magazine」のコンテンツです。この記事の後半部分は単独300円で購読できますが、月額700円でマガジンごと購読していただくと、サッカーと旅に関する記事を毎月15本程度読むことができます。

「なにかと人生勢いのバツイチ女子だが、マリノスへの熱だけはどうしても冷めない」タイトルからパンチのある名久井梨香さんによる溢れんばかりのマリノス愛の記事や、footysabさんによる日本からたった二時間でたどり着くことのできるヨーロッパサッカーに関する旅記事など、著者の嗜好が色濃く出ている様々な記事が並んでいます。中東遠征を夢見る五十嵐は、ほりけんさんによるACL決勝のサウジアラビア遠征記がお気に入りです。

OWL magazineと世界中のサッカーを巡る旅へ!!

以下有料部分では、鹿島アントラーズサポーターの五十嵐が、ここぞとばかりに気になる質問を遠慮無くぶつけていきます。椎名選手、最後の最後までご協力本当にありがとうございました。


ー 鹿島アントラーズサポーターとして、気になる質問をしてもいいですか?

椎名選手:いいですね!そういうの楽しいです。(笑)

ー 椎名選手とお話をさせて頂いて、何度か「鹿島アントラーズが好き」っていう発言が飛び出してきていて……。それは五十嵐的に見逃せないんですが、理由ってお話してもらっても大丈夫ですか?

椎名選手 : ……。うーん……。彼がいたからかな……。名前は出さないっすけど。 憧れてたんですよね。本当に。

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